これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

癌 告知から亡くなるまで 妻と過ごした137日 ⑭

7月10日、
妻は、ここ数日、表情が乏しい状態が続いていたが、少し愛想が戻ってきた。


次女である義姉から差し入れを届けたいというメールが妻に送られて来たが
妻はそれを断った。


7月11日、
昼、妻はマンションの1階にあるコンビニで
500円の弁当は高いと言って200円台のサンドイッチを買って来た。


倹約が染み付いてしまった。私のせいである。


それまでは倹約を強いたことに反発して私を責めていたのに。


二人の老後資金は必要でなくなったのだから、
高くても出来るだけいいものを、食べてほしいのだが、


後悔の念に駆られる


7月12日 
妻は痰を二度ティシュで拭った。 
右手に炎症痕がある。
妻はスカパーの未払い請求が来たためコンビニに行って支払いを済ませた。。


7月13日
12時30分、女医が往診で訪れた。


その後、調剤薬局まで薬を受け取るため二人で歩いた。


椅子に座り、薬が出るのを待っている妻の姿を、
本人が気付かないようにビデオ撮影した。


帰り道、「歩くと足の付け根が痛い」と妻は言った。


夕方、
私は、妻宛てに来ている年金払い込みの請求書の件で社会保険事務所に行った。
担当者から、癌告知から1年半経つと障害年金が出るようになるという説明があった。


夜、
手元供養のために室内に置く骨壺を選ぶため、パンフレットを妻に見せた
妻はいろいろある色の中で、シルバー色の壺がいいと言った。
その理由は
以前勤めたことのある電機メーカーのイメージがあり、
そこに戻った気持ちになるからと答えた。


妻はこのような話を私にした。


「高校の同窓会に出席した時、同級生から、
究極の美人で有名だった と言われたことがあるのよ」と。


なぜ妻はこの様な自慢話ともいえるようなことをこの時期に言ったのだろう。


通常妻は、自分のダメさ加減をネタにした話をして
私を笑わせることの方が得意だったのに。


妻は
派遣先での契約の更新はほとんど成されなかった。
三姉妹の中でひとり両親に叱られることが多かった。


このまま“悔しいだけの人生”で終わってしまうことの無念さを
払拭し、意地を見せたかったのかもしれない。


7月14日 
妻は痰を二度ティッシュで拭った。 
右手に炎症痕がある。
妻はスカパーの未払い請求が来たためコンビニに行って支払いを済ませた。


7月16日、
妻は6時頃起きて、薬を飲み、水洗いをし、昼にサラダを食べた後、
暑さのためか、疲れた感じでずっと寝ていた。


7月18日、
右脇腹に強い痛みが出てきたため、主治医に電話をして、
いつもより早い8時30分に、主治医に来てもらった。


主治医 「内臓の腫れでしょ。水は溜まっていない」
妻   「余命どのくらいですか?」
主治医 「何とも言えません。」
妻   「食事はトマト1個のみ。筋肉が弱っているせいか歩くと足が痛い」
主治医 「水分は取っていますか」
妻   「はい」


夜、義姉より、様子伺いの電話があった。


7月19日夜、妻が私の腕を引き寄せて来たので、
私は妻の肩を抱いて約20分寄り添った。


妻を思う強いエネルギーが、
がんの奇跡的治癒を成し遂げるのではないか、
そのような非科学的な考えを持って、私は妻を抱きしめた。

×

非ログインユーザーとして返信する