これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

妻と運動

オリンピックの開会式を見た。
幻想的な演出が数回織り込まれていた。


その幻想的な雰囲気は、私の目から涙を引き出した。
確かに少しは感動した。
それよりも、理由は他にあった。


幻想的な雰囲気が、宇宙を感じさせ、すると、妻を感じるようになるのだ。
妻を感じ、涙が出てきたのだ。


その幻想的な演出は、いとも簡単に私を泣かせた。


妻が生きていたら、
セミダブルのベッドの上に、2人並んで横たわり、
開会式を見ていたことだろう。


妻は、スポーツやイベント関係には、ほとんど関心を示さない人で、
番組を見たいのではなく、私と共通の行動を取ることに、
喜びを感じる人だった。


私は、たいていのスポーツに関心があり、
テレビで見ることもそれなりにあった。


妻は、スポーツ番組を見ている私に対し、おおむね好意的だったが、
格闘技(ボクシング、レスリング、柔道)を私が見ることに批判的だった。


ボクシングに対しては、
止めたりはしなかったけれど「(見るの)やめなさい」と言うし、


「“うめ”を殴る研究をしてんやろ~」などと言っていた。


(“うめ”というのは、妻が自身で付けた“呼び名”で、その名前の由来は
いまだに分かっていない)


レスリングや柔道の女子の試合を見ていると、
「こういう人と結婚すると投げ飛ばされるよ。うめの方がかわいいよ」
とよく言っていた。


妻がテレビでよく見ていたのは、
皇室関係、昔の洋画など、平和的なものが多く、
それと対照的な、肉体と肉体をぶつけ合う格闘技は、
野蛮に見えていたのかも知れない。
(私は、格闘、武道をする人は、身体だけでなく、心の成長も併せて
目指している人が多い印象を持っています)


妻は運動神経とはほど遠い人だった。


学生時代、体育の授業で、バスケットの試合中、
一度もボールに触ることが出来なかった話も聞いたし、


母親から頼まれて、デパートのバーゲンで、
ある人気商品を買うために、開店前、1番前に並んでいたのだが、
ドアが開くと同時に走り始めたところ、
後ろにいた、たくましいおばさんたちに突き飛ばされ、床に倒れ、
結局、目指した商品を買うことが出来なかったという話も聞いた。


こういう話を妻から聞く度に、私は癒やされていた。


妻は自転車にも乗れなかった。


今、選手村となっている場所にも思い出がある。


あの場所は、以前、
東京湾大花火祭の観覧場所として使われていた。
妻と私は、25分ほどかけて歩き、
一度だけそこで花火を見たことがある。


その時の映像はパソコンの中に入っていて、たまに見ることがある。


主に花火を撮影しているのだが、一定の間隔ごとに、
花火を見つめている妻の“横顔”を撮っている。


薄暗い中、
無垢な感じの妻がよく映し出されている。


花火の音をバックにして、
「妻の良さ」が十分に出ている映像だと思った。

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