これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

“優しさ”が貯まっていく

最近、何か、胸につかえているものを感じる。


心配事でもないし、食べ物がつかえているわけでもない。


その正体は“優しさ”だ。


妻が亡くなってから4年余り、人に優しくしていないので、
胸の中に4年分の“優しさ”が残ったままになっている。


どこかで、この古くなった“優しさ”を使い切って、
新しい“優しさ”を準備し、新陳代謝を図りたいのだが、
使う場面がないので、その在庫を捌けないでいる。


妻がいるときは、
無意識のうちに“優しさ”は放出され、
常に新鮮な“優しさ”が胸の中に準備されるという
好循環サイクルが機能していた。


今は、
社会生活を営む最低限の“優しさ”だけを出している。


その量はあまりにも少ないため、
在庫はどんどん積み上がっている。


行き先が見つからないのであれば、
相手を選ばず、
魂の入ってない優しさ”の在庫一斉セールを行なうという方法もあるが、
それは、相手に失礼だろう。


“この人だ”という人に、
無償の“優しさ”を受け取ってもらいたいという考えがある。


そんなにもったいぶるほど、
私の“優しさ”はいいものなのか
と言われそうだが、
確かに、それほど高品質のものではない。


しかし、与える相手次第で、高品質なものに変化すると思っている。


高品質なものに変えてくれたのが妻だった。


見返りを求めない“優しさ”は、
高品質の部類に入るだろう。


妻がいなくなって、
使い道のない、古く価値のない“優しさ”が
私の胸の中で、積み上がって行く。


愛情が、妻一点に集中していたことが、
こういう結果を生んでいるのかもしれない。


妻は、私にとって、“面”ではなく“”だったのだ。


妻が、“面の中の一点”という位置づけだったら、
こんなに困らなかったかもしれない。


日本の国で例えると、
東京一極集中問題。


東京直下型地震が将来起こった時、
首都分散を行なわなかったことに対して、
悔やまれるかもしれない。


私の家庭は、“がん”という人生最大の地震に見舞われた。


“妻”に集中していた私の心の機能は、
ほとんどが壊されてしまった。
“妻”に集中していた分、ダメージは最大となった。


その後の復興作業は、なかなか進まない。


この“優しさの在庫”、
どう処分すればいいものか。


ダメ元で、天に向かって、打ち上げてみるか。

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