妻が失ったもの(時間)
妻は57歳で亡くなった。
女性の平均寿命を87歳とすると、
妻は生きるはずだった30年間の経験を失ったことになる。
この数字を見て、
妻は本来経験出来たはずのいろいろなことが出来なかったということだ。
それを思うと、「切なさ」で胸が締め付けられる。
「もの」を失うことは気持ちがいいことではないが、
それにも増して、
「経験」を失うことは、代替がないことであり、
切なく感じるのだと思う。
私も、部屋のキーや自転車のキーをなくしたりしたことや、
財布を落とした経験があり、
私にとって、それなりに大きな出来事だったのだが、
これらは、代替が効くものであり、
一時的に不便があっても、もとの環境に戻ることが出来る。
それに対して、
妻を亡くすということは、
代替が効かないものを失うことであり、
その出来事から受ける心のショックは限りなく大きい。
でも、
この「喪失感」というものは、私自身が抱えるものである。
それに対し、
妻が経験するはずだった「未来の可能性」という時間は、
妻が失ったものである。
今、私の心の中にある「喪失感」は、確かに重いものであるが、
私自身の痛みであり、妻の痛みではない。
そう考えると、「なんだ、私だけの問題ではないか。
妻の痛みとはつながらないではないか」ということに気が付いた。
私が苦しむことは、それほど重要なことではない。
私の「後悔」よりも、
“妻の持つはずだった人生経験を失った無念さ”の方が、
はるかに重い。
私が持つ「喪失感」は、
今後、私自身が向き合って対処すればいいだけのことだ。
それよりも、「妻が失ったもの」 について考えていきたい。
でも、その妻はいない。
“いない人が失ったもの”を取り戻すことは、難しい挑戦なのだろうか。