これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

物語作り

nora


スーパーで買い物をしていて、

40歳前後の夫婦が買い物をしていて、

 

主人が商品を手に取って「これどうしよう」と奥さんに

聞いて、

奥さんが「いや、まだいいよ」と答えた後、

奥さんが、隣の商品を指さして、「これ、安いんじゃない」と、

主人の方を見て、反応を確かめた。

 

主人が「ほんとだ」と言ったのを確認して、

奥さんはその商品をかごに入れた。

 

隣にいた私は、

いい関係性を持った夫婦のように感じられた。

 

お互いを深く信じ合っている様子がうかがい知れて、

そういう光景を目にすると、こちらも心地よくなる。

 

羨ましいという感情が出ることはなく、

仲の悪そうな夫婦を見るよりは、

こういう夫婦を見る方が、自分の精神衛生上にも良く、

気持ちよく買い物が出来る。

 

ただ、そういう夫婦をただ眺めるのではなく、

その当事者でありたいという気持ちが自然と沸いてくる。

 

あの時の温かい感触をもう一度体感したくなる。

切ない切望が溢れてくる。

 

でも、それは叶わないこと。

それは、わかっていて、

冷静に受け止めることは出来るようになっている。

 

スーパーで見た二人は、

「二人の物語」を作ってる最中なんだな と思った。

 

このような“ふれあい”の蓄積を重ねて、

物語が出来上がっていくんだなあ と思った。

 

この物語は、いずれどちらかが亡くなった時、

生きてる方が何度も頭に浮かべて、

時に泣き、時に笑い、時に郷愁に浸る影像となるんだなあと思った。

 

私の場合は、物語は終っている。

“完成していない物語”で終わってしまった。

 

その“未完成作品”を繰り返し巻き戻して見ている。

完成していなくても、

私を泣かすことが出来るし、笑わすことが出来るし、

郷愁を誘うこともできる。

 

未完成であっても、立派な作品だと思う。

 

 

妻はかぐや姫?

nora


人間は、イメージ的に大きく分けて、

「太陽」と「月」に分けられると思っている。

 

「太陽」は、明るく活動的、

「月」の方は、繊細な内面タイプ

といったところか。

 

妻は、間違いなく「月」の方だ。

既成の常識を嫌う行動は、“火星的”とも言える。

 

私は、妻に対して“かぐや姫”のイメージを持っているので、

地球へ留学した妻は、

ホームステイ先である私のところで24年半過ごした後、

月へ帰って行った と思っている。

 

妻は地球での私との生活に満足していただろうか。

 

別のホームステイの方がよかったんじゃないかと思ったりする。

例えば、高校を卒業した後、付き合っていた高校の同級生。

 

お互い好きだったのに、

子供が欲しい彼と、子供はいらない妻 との考えの違いで、別れている。

 

妻は、私と彼、どちらが好きだったのだろう。

妻に聞かないとわからないが、

私が答えを言うとしたら、

 

妻はこう答えると思う。

 

「二人とも好きでした」と。

 

妻は月に帰った と書いたが、

本当に月にいるのだろうか。火星かもしれない。

 

いや、どちらにもいないと思う。

 

今でも、地球にいるのではないか。

私の傍で私を見守っているのではないか。

 

あるいは、

そのような願望を打ち消す答えとして、

 

月にも、火星にも、地球にも、私の傍にも、

どこにもいないという厳しい答えが返って来るかもしれない。

 

 

妻が失ったもの(時間)

nora


妻は57歳で亡くなった。

女性の平均寿命を87歳とすると、

妻は生きるはずだった30年間の経験を失ったことになる。

 

この数字を見て、

妻は本来経験出来たはずのいろいろなことが出来なかったということだ。

 

それを思うと、「切なさ」で胸が締め付けられる。

 

「もの」を失うことは気持ちがいいことではないが、

それにも増して、

「経験」を失うことは、代替がないことであり、

切なく感じるのだと思う。

 

私も、部屋のキーや自転車のキーをなくしたりしたことや、

財布を落とした経験があり、

私にとって、それなりに大きな出来事だったのだが、

これらは、代替が効くものであり、

一時的に不便があっても、もとの環境に戻ることが出来る。

 

それに対して、

妻を亡くすということは、

代替が効かないものを失うことであり、

その出来事から受ける心のショックは限りなく大きい。

 

でも、

この「喪失感」というものは、私自身が抱えるものである。

 

それに対し、

妻が経験するはずだった「未来の可能性」という時間は、

妻が失ったものである。

 

今、私の心の中にある「喪失感」は、確かに重いものであるが、

私自身の痛みであり、妻の痛みではない。

 

そう考えると、「なんだ、私だけの問題ではないか。

妻の痛みとはつながらないではないか」ということに気が付いた。

 

私が苦しむことは、それほど重要なことではない。

 

私の「後悔」よりも、

“妻の持つはずだった人生経験を失った無念さ”の方が、

はるかに重い。

 

私が持つ「喪失感」は、

今後、私自身が向き合って対処すればいいだけのことだ。

 

それよりも、「妻が失ったもの」 について考えていきたい。

 

でも、その妻はいない。

 

“いない人が失ったもの”を取り戻すことは、難しい挑戦なのだろうか。