夏の部を担当する“蝉合唱団”は舞台を降り、
変わって秋の部を担当する“虫合唱団”の鳴き声が聞こえ始めた。
2016年に母親が、2017年に妻が、2018年に父親が亡くなっている。
3人とも“秋”に亡くなっている。
ちなみに、妻も私も誕生日が10月で、これも“秋”である。
私は妻を亡くして、おひとりさまになった。
昼は、ほとんど外食だが、
夕食は、ほとんど、一人寂しく、妻の遺骨箱の前で食べている。
このような“老人の寂しい姿”を目にした人がいたとしたら、
どんな風に思うだろうか。
「かわいそう」と思う人もいれば、
そんな悲壮感を漂わさないで、もっとシャキッとしてほしい
とネガティブな感情を持つ人もいるだろう。
でも、私としては、妻と向き合っている時間であり、
心が落ち着く時間になっている。
妻を亡くして数年間は、自分は世界で最も不幸な人間だと思っていた。
「悲しみ」以外、何もないと思っていた。
しかし、
人生を俯瞰して見れるようになった最近では、
「悲しみ」だけで、私の人生を片付けていいのだろうか
と思うようになった。
喪失感は、
それまであった何かがなくなったから生じるのであり、
そういうものが、もともとなかったとしたら、
喪失感は生じようがないのだ ということに気が付いた。
そもそも、妻と出会っていなかったら、
今の喪失感は存在することはないのだ。
妻と出会えた幸運、そして一緒に生活出来たこと、
「幸せだった」と言えるだろう。
「悲しみ」と「幸せだった」が、同時に私の心の中に存在している。
日によって、「悲しみ」が上回っている時があれば、
「幸せだった」が上回る日もある。
「悲しみ」も「幸せだった」も、
“妻”という一人の女性がもたらしたものなのだ。
闇があるから光があるのだ。
その逆もある。