これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

音楽は、思い出を連れてくる

スーパーで、
何を買おうか ということだけに向いていた意識が、
流れていたBGMが耳に入った途端、
そちらの方に、意識が移った。


その曲は、
曲名を知ることなく、テレビなどで、時々耳にする曲であり、
パリの町並みを歩いている気にさせられるメロディーだ。


これまでは、何気なく聴いていた曲だが、
その日は、なぜか、いいメロディーだと思い、
胸にしみるものがあった。


私はフランスには行ったことがないが、
その曲で、パリをイメージした後、
なぜか、同じヨーロッパであるイタリアの情景に置き換えられた。


妻は、2017年の5月にがん告知を受け、10月に亡くなったのだが、
その前年の2016年に、私達夫婦はイタリア旅行をしている。


このBGMを聴いていると、
旅先での妻の姿が、頭に蘇ってきた。


すると、この曲がますます胸に沁みてきた。


少し涙目になった。


買物を終え、家に戻り、
グーグルで、「パリ シャンソン」で曲名を検索した。


曲名が「パリの空の下」だということがわかった。


聴いてみて、
やはり、自然にパリの風景が浮かんでくるメロディーである。


妻は、父親のことを、
「パパ」ではなく「お父ちゃん」と言っていた。


そんな妻だが、なぜか、
妻の姿は、イタリアの風景が似合っていた。


妻は、時間と競争することを嫌う人で、
他の人に比べて、何事もゆっくり行なう人だった。


イタリアは、
歴史の積み重ねの痕跡がいろいろな形で残っている建物が多くあり、
それらが町並みを形成している。
妻のような“ゆっくりズムの人”を受け入れる風景があった。


私を癒やしてくれる存在だった妻は、
もういない。

心の安定を取り戻す

死別経験者が今の心情を、
「身体の半分を失っている状態」と表現することがよくある。


私も、正にそのような心の状態であり、
毎日、何か足りないと感じながら生きている。


2分の1あった妻が、
私の身体から離れて行ったことが原因なのは明らかだ。


当たり前だが、
体重が半分になったということではない。
心の中が半分になったということだ。


心の容量を量れる測定器は存在しないので、
そうなっているのがわかっているのは、本人だけである。


結婚当初は、私の心の中は、私一人で埋められていた。


でも、妻と生活していくうちに、
私の心の中に妻が入ってきて、
私2分の1、妻の2分の1という構成で、
私の心が出来上がり完成した。


これを、夫婦一体というのだろう。


私一人であった時より、強化された心になった。


しかし、
強化された心は、24年半で終了した。


今、私の心の中には、ポッカリと半分、空間が出来てしまった。


心が満たされないのは、これが理由だろう。


この空いた空間を埋めないことには、しんどい生活が続くことになる。


そうならないため、空間を埋めたい。


やはり、ここに入るべきなのは、妻しかいない。


しかし、
妻は、もういない人である。


でも、
姿がなく、返事がなくても、こちらから話しかけることは可能だ。


それを毎日続けることで、妻が空間に吸い寄せられ、
半減していた自己が、復活するような予感がする。


心の中に、妻の存在を感じることが大事だ。


そうなることで、
私の心は、
不安定から安定へと回復することになる。

“命”とは

現在、パックご飯が食器棚に30個(5袋×6)ほどある。
それはそれで、何ら問題ではないのだが、
正味期限が、全て今年の4月と表示されている点が問題なのだ。


消費期限ではないので、食べても問題はないのだろうが、
今、4月なので、今食べないと、味がどんどん落ちていく。


なぜここまで食べずにいたのかというと、
去年、7月から、パックご飯を辞めて、ごはんを圧力釜で炊くようになったため、
おいしいご飯を食べたいことから、
パックご飯から縁遠くなり、賞味期限を確認することもなかった。


1日1個食べても、1ヶ月かかることになる。


その間、冷蔵庫で保存しているお米は減らないため、鮮度が落ちるが、
致し方ない。


“もったいない”を優先したい。
5月の中旬までを、“パックご飯”月間にすることにした。


妻を亡くして1年程は、
食べることに全く関心がなくなっていて、
食べたいものもない状態だった。


今は、幾分、食事も楽しみの一つとなっている。


ただ、
一人で食事をしている時や、食器を洗っている時、
妻を思い出す頻度が高くなっていることに気づく。


“食事”と“命”は関係性が高いため、そうなるのだろうか。


“命”とは、
“体”と“心”をくっつけている接着剤の様なものと考える。


命がなくなるということは、
それまで一体であった“体”と“心”が分離し、
体は消滅して、心(魂)だけが残った状態だと考える。


“体”は永遠ではないのは明らかだ。


心(魂)は残ると言ったが、
これは科学的に証明された訳ではない。


体と共に滅びるのかもしれない。
体と同じく永遠なものではないかもしれない。


だとしたら、
妻はすべてなくなったということになる。


それは悲しいことではあるけれど、


そうであれば、それでいいと思っている。
私もいずれ無になるということなので。


生命とはそんなものだと思えば、気が楽になる。