これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

久しぶりの飲み会

3日水曜日、
9年前に辞めた会社のメンバーの飲み会に参加した。


私を除いた7人の内訳は、
2人が、妻が亡くなった翌年の2018年5月以来、
2人が、私の退職直後に飲んで以来、
3人は、いっしょに飲むのが初めての人
というメンバー構成だった。


18時半に始まり、3時間半の飲み会だった。


年数を経ているのに、みんな以前の外見とほとんど変わっておらず、
70歳を超えている2人、60歳を超えている1人も、
引き続き働く意向があり、元気だった。
やはり、仕事をしていると、年を取らないのかな 
と思った。


仕事をしていないのは私だけであり、
話題がついて行けるかどうか少し心配だったが、


この飲み会には来ていないが、私が知っているこの会社の人の今を
聞くことで、会話は成り立った。


すでにこの会社を辞めている人も、いい転職をしたり、
公務員になったりして、立派に働いていることがわかった。


この人たちを見ていると、
これからの生活をいかに良くするかを考えながら
生きてるように思えた。


幹線道路を、真っ直ぐ前を向いて歩いてる感じだ。


私の場合は、
妻の死後、
幹線道路から分岐した細い道をあえて選び、歩いてる感じだ。


この道を歩く方が、
雑音から離れ、静かに妻を想いながら歩けそうだと思ったので。


以前は、私も幹線道路を歩いていたと思うが、
今は、私は違う世界に入っていると感じている。


久しぶりに3時間半だけ幹線道路に戻ったのだが、
懐かしさもあり、楽しいには楽しかったけれど、
違う世界の人に話を合わせるしんどさもあった。


この飲み会に私を誘った同僚は、半年前に妻を亡くしており、
子供がいないという点でも同じであり、
お互い共通の話が出来る相手なのだが、
このような飲み会では、雰囲気的に、
死別に関する話はしにくかった。


彼も、死別経験の先輩として、私の話をもっと聞きたかったのか、
今度、また会うことが約束された。
席が私と彼の間だった女性が、「私も」と言ったので、
3人で会うことになりそうだ。

終活は続く

前日、2つの終活関係のものが片づいた。


一つは、
契約している生命保険2つの内の1つの解約を、
生命保険会社に電話で伝えた。
解約手続きの書類を送付してくれるとのこと。


解約返戻金の額は、一括払いの金額とトントンであった。


もう一つ入っている生命保険は、夏に5年満期となる予定だが、
ドル建ての保険で、契約時はドル円が107円だったのが、
今は150円を超えているので、一括払い金額を大きく上回るはずだ。


夏に、満期返戻金を受け取って、ドル円が下がった時に、
担当者の説明を聞いたうえで、新たに保険に入ろうと思っている。


妻を喪って、生命保険は必要なくなっているのだが、
30代後半の女性の担当者が、
私が話す「妻の話」を長時間であっても聞いてくれる人なので、
貯蓄型の保険であれば、入る価値はあると思っている。


もう一つ、片づいた終活関係のものとして、
妻の画像と動画を編集する作業があるが、
音楽の組み込みが終了したことで完成した。


これが、なぜ終活活動になるのかと言うと、
妻の生前の姿を残した映像を保存したUSBを、
姉弟妹、義姉に渡すことも終活活動の一部と考えているので。


そうすることで、妻に対する記憶を、
少しでも私以外の人に残したいという私の考えがあり、
終活活動の一部に入れている。


ちなみに、私の姿は、ちょっとだけ映っている程度だ。


妻がいた時は、
お金、人間関係など、増やすことに専念していたところがあったが、
今は、減らすことに専念している。


増やすよりも、減らす方が、
なぜか心が安定しているように思える。


心がシンプルになり、身軽になっている感覚がある。


その分、妻への想いに集中出来ている感覚がある。


妻に会うためには、魂だけがあればいい。


終活はそのための整理活動だ。

やさしさの迷走

私は人から、
やさしいとか、やさしそう か言われることが多い。


でも、
私は、やさしい人間ではない
自分のことを一番知っている私が言うのだから、間違いない。


私は、妻に対してだけやさしい人間だ。


ほかの人に対しては、可もなく不可もなく接していて、
特別にやさしくしたいとは思わない。


もし、相手からやさしいと言われたとしたら、
それは、
やさしくしている自分の姿に酔っている自分がいるのであって、
相手を思うやさしさではなく、自分のためのやさしさと言える。


なので、私は、
博愛精神は持ち合わせていなく、
例えば、福祉の仕事や、牧師などの仕事をやったとしたら、
表面的にはやさしく出来ていても、
中身の伴わないやさしさであるため、長くは続かないと思っている。


ただ、妻に対してだけは、
「やさしくしなければ」ではなく、
無意識の中で、「やさしくしたい」と思えていた。


そのような私の前から、妻がいなくなると、
私のやさしさは、迷走し始める。


妻以外に向かおうとしない“私のやさしさ”は、
行き場を失い迷子状態となっている。


なので、しかたなく、
私の頭の中にバーチャル空間を作り、
その中に“妻”を存在させ、
そこに向けて“やさしさ”を発信させている。


言わば、私が“私のやさしさ”を騙していることになる。


妻が生きていれば、このような小細工は必要ないのだが、
いないのであるから、致し方ない。


少なくとも、私がこの世にいる間は、
このようなやり方を続けざるを得ない。


もしも、もしも、次の世界があるとして、
妻と再会するという奇跡が起ったなら、


私の心の中にたくさん溜まっていた“やさしさ”を
心置きなく放出することになる。


このような筋書きを考えてはいるのだが・・・。