これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

“思い出”と“悲しさ”

思い出は、なぜきれいに見えるのだろう。
思い出は、なぜセピア色なのだろう。
思い出は、なぜ私の胸を締め付けるのだろう。
思い出は、なぜ手を伸ばしても届かないのだろ。


私の頭の中には、なぜ妻の思い出しかないのだろう。


頭の中を隅々見渡すと、
端っこに、ほんの少しだけ妻以外の思い出を見つけることが出来る。
でも、それは気が付かないレベルの量だ。


「妻の思い出」を持つ前の私と、「妻の思い出」を持った後の私を比べると、
自分の体の質量が増えている感覚がある。


体重は変わってないが、
妻から受けた影響が質量を増大させたのだと思う。


質量は増えたのはいいが、悲しさが新たに加わった。


“思い出”はないが “悲しさ”もないのと、
“思い出”はあるが “悲しさ”があるのと、
どちらがいいのか考えてみた。


比較するまでもなく、
“悲しさ”がある方を選ぶだろう。


“思い出”があり、“悲しさ”もないのが一番だが、
妻は亡くなったのだから、まあしょうがない。


“思い出”も“悲しさ”も、
頭の中の“妻”が作り出している産物だ。


“悲しさ”は、
人生の中で、妻と接点があったことの「証明書」と言える。
妻との出会いが私の人生の中でなかったとしたら、
今の悲しさもないことになる。


“妻の思い出”と“悲しさ”。
この一見相反する二つが、
切っても切れない結びつきがあることが、最近分かって来た。
一歩前進かもしれない。


これから、次の段階に入る。


ここからは、数段難易度が上がる。
“悲しさ”を受け入れる多様性の感覚が必要となってくる。


“悲しさ”は、
多くの人にとって、出来れば避けたく、疎ましいものであるはずだ。


でも、それは消えることがないので、
どう付き合うかを考えなくてはならない。


悲しさを感じた時、
妻が私に近づいていると考えるのはどうだろう。


そう考えたら、悲しさを蹴散らしたりは出来ないだろう。
今後しばらく、これを実践して、
自分がどう変わるかを、見ていきたい。


“悲しさ”は、“妻”なのだ。

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