これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

“普通の人”ではなくなった

私が持っている “人との交流円”  の直径が、
小さくなっていると感じている。


“普通の人”は、
もっと直径が大きい円を持っているようだ。


かつての私は、
普通の人並みの大きさの円を持っていた気がする。


大きい円を持っていると、
他の人の円と交わる部分が出来やすくなり、
人との交流で、しんどさ を感じることはない。


円が小さいということは、
言い換えれば、話したい内容が少なくなっている状態だということだ。


お互いの円の交わりが多いほど、
話をしていても、お互いの満足度は大きくなる。


円が小さくなっている私は、
他の人の円との交わりが少ないので、
相手に話を合わす部分が多くなる。


“普通の人”が望む話題は、
世の中のトレンドに関すること、共通の知り合いの話、
家族の話、SNSやYouTubeの話、最近やったこと など。


これらが、その人の円の中にたくさん入っている。


私はというと、
一番話したいのは、“妻の話”であり、
上に挙げた話題はあまり関心がないものとなっている。


なので、私の円は小さくなっており、
他の人の円と交わる部分は自然と小さくなっている。


しかし、
“普通の人”は、私の円が小さくなっていることを知らない。


私に、普通の話をしてくる。
私は興味のない話に合わせるしんどい時間となる。


かといって、私が妻の話をすると、
今度は、相手がしんどい時間を持つことになる。


だから、私は、
人と会っても、妻の話は出来るだけしないようにしている。


でも、
私は、このような状態が嫌ではない。


関心のある妻のことを想っているだけで、
十分満足している自分がいる。


“普通の人”でなくなった私だが、
これは、妻に会えるまでの過程だと思うと、
何ら気にすることではないと思っている。

心の中の でこぼこ

一昨日、歯を抜いた。


7年ほど前のブリッジ療法における土台となっている歯が割れたためで、
これで、2本歯を失ったことになる。
あと、20年以上前に、親知らず を1本抜いている。


その時の痛さの記憶があったため、
抜くことに抵抗があったが、
抜いてみると、1時間ほど微妙な痛さはあったものの、
その後、痛みはなく、それまでの左側だけで噛んでいたのに比べ、
ずっと楽になった。


私の体の懸念部分は、
「糖尿病」、「腰痛」、「歯のぐらぐら」の3つであったが、


腰痛は、独自のストレッチが効いてきて、
昨年からだいぶ改善している。


歯のぐらぐら からくる痛さも、
今回の抜歯で懸念部分から外れるだろうから、
残る懸念は、糖尿病だけになる。


今後、新しい懸念部分が出てくる可能性はあるが、
今のところ、体に関しては、まあまあいい感じになった。


それに対し、
“心”の部分は、引き続き低空飛行となっている。


今後、高度を上げることは無理だとわかってきているので、
墜落しないことだけに気を配ればいいと考えている。


お金も、地位も、不動産も、健康も、
あの世には持って行けないが、
“心”(魂)だけは、
唯一持って行けるものだと思っている。


妻が亡くなるまでは
お金、地位、不動産、健康 を
必死で追いかけていた姿があったように思うが、
妻の死後、必要最低限以上は求めなくなっている。


その様な心の状態でいると、
心の中の でこぼこ がなくなり、
物事がスムーズに進むことが増えている感覚がある。


人間、「足るを知る」という心の状態が大事なのかもしれない。


「妻の死」が、
私の心の中にあった でこぼこ を取り除いてくれたとも言える。

“幸せ”を取り戻す

昼食を終えて、自転車で自宅へ向かっている時、
前方に見える桜の木から、花びらが舞って落ちるのが目に入った。


桜が満開の景色もいいが、
花びらか散っている景色も、風情があって悪くない。


でも、その光景は、命を感じさせ、
すると、妻の姿が脳裏に映し出される。


そして、胸が痛くなる。


去年も、
桜の花びらがひらひらと落ちていくのを見て、
同じような心情になったことが思い出される。


でも、桜は、一度花びらをすべて落しても、
来年には、再び満開の様相を呈して、そして散っていく。
これを繰り返す。


そういう意味で、桜は、死んだようで死んでいないのだ。
今年の花びらは確かに土に還って消えて行くが、
来年は新しい花びらをつけた姿を見せてくれる。


人間で言うと、
肉体は滅んでも、魂は生きてる みたいなことになる。


妻も、桜のようであってほしい。


肉体はなくなったが、魂は生きていてほしい。


そうであったら、
私が今抱えている、悲しみ、後悔、喪失感は、
きれいに消え去るのだが。


私にとって、
いないものを想うより、
いるもの”との繋がりを感じてる方が、
幸せであることに間違いはない。


私が幸せな自分に戻る時とは、
妻を、
“いるもの”として確信する時であろう。