これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

根拠はなくても、希望はある

妻の画像や動画を時々見る。


頭の中に映し出される“妻”と、
画像や動画に映っている“妻”との間に
ズレがないと感じた時、
ホッとするところがある。


どういうことかと言うと、
自分の妻に対する記憶が、
まだ衰えていないことを確認出来た安堵感とでもいうのだろうか。


妻は間違いなく死んだことは認めるが、
私の頭の中では、
まだ生きているという、慰められたような感覚がある。


年齢とともに、記憶力は落ちてきているが、
妻の記憶は落ちないで踏ん張っている。


画像や動画は、
記憶チェック用のサンプルとして役立っている。


カメラやビデオカメラがない時代の人は、
頭の中の記憶だけが頼りということで、
記憶のズレをチェックするものがなく、
画像や動画の持つ役割は大きい思う。


論理的思考の左脳タイプの人は、静止画、
感覚的思考の右脳タイプの人は、動画での記憶が多い
と書かれた文章を見たことがある。


私の場合、
静止画を見ている時は、妻の顔を思い出し、
動画を見ている時は、妻の持っている雰囲気を
思い出してるように思える。


しかし、
静止画も動画も過去の妻である。


私が本当に求めているのは “今の妻” なのだが、
それは叶わない私のおねだりと言える。


ならば、“未来の妻”はどうだろう。


「過去」と「今」は、今、結果がわかるのに対し、
結果がわからないのが「未来」なのだ。


根拠はなくても、希望はある。

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