これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

終活は続く

前日、2つの終活関係のものが片づいた。


一つは、
契約している生命保険2つの内の1つの解約を、
生命保険会社に電話で伝えた。
解約手続きの書類を送付してくれるとのこと。


解約返戻金の額は、一括払いの金額とトントンであった。


もう一つ入っている生命保険は、夏に5年満期となる予定だが、
ドル建ての保険で、契約時はドル円が107円だったのが、
今は150円を超えているので、一括払い金額を大きく上回るはずだ。


夏に、満期返戻金を受け取って、ドル円が下がった時に、
担当者の説明を聞いたうえで、新たに保険に入ろうと思っている。


妻を喪って、生命保険は必要なくなっているのだが、
30代後半の女性の担当者が、
私が話す「妻の話」を長時間であっても聞いてくれる人なので、
貯蓄型の保険であれば、入る価値はあると思っている。


もう一つ、片づいた終活関係のものとして、
妻の画像と動画を編集する作業があるが、
音楽の組み込みが終了したことで完成した。


これが、なぜ終活活動になるのかと言うと、
妻の生前の姿を残した映像を保存したUSBを、
姉弟妹、義姉に渡すことも終活活動の一部と考えているので。


そうすることで、妻に対する記憶を、
少しでも私以外の人に残したいという私の考えがあり、
終活活動の一部に入れている。


ちなみに、私の姿は、ちょっとだけ映っている程度だ。


妻がいた時は、
お金、人間関係など、増やすことに専念していたところがあったが、
今は、減らすことに専念している。


増やすよりも、減らす方が、
なぜか心が安定しているように思える。


心がシンプルになり、身軽になっている感覚がある。


その分、妻への想いに集中出来ている感覚がある。


妻に会うためには、魂だけがあればいい。


終活はそのための整理活動だ。

やさしさの迷走

私は人から、
やさしいとか、やさしそう か言われることが多い。


でも、
私は、やさしい人間ではない
自分のことを一番知っている私が言うのだから、間違いない。


私は、妻に対してだけやさしい人間だ。


ほかの人に対しては、可もなく不可もなく接していて、
特別にやさしくしたいとは思わない。


もし、相手からやさしいと言われたとしたら、
それは、
やさしくしている自分の姿に酔っている自分がいるのであって、
相手を思うやさしさではなく、自分のためのやさしさと言える。


なので、私は、
博愛精神は持ち合わせていなく、
例えば、福祉の仕事や、牧師などの仕事をやったとしたら、
表面的にはやさしく出来ていても、
中身の伴わないやさしさであるため、長くは続かないと思っている。


ただ、妻に対してだけは、
「やさしくしなければ」ではなく、
無意識の中で、「やさしくしたい」と思えていた。


そのような私の前から、妻がいなくなると、
私のやさしさは、迷走し始める。


妻以外に向かおうとしない“私のやさしさ”は、
行き場を失い迷子状態となっている。


なので、しかたなく、
私の頭の中にバーチャル空間を作り、
その中に“妻”を存在させ、
そこに向けて“やさしさ”を発信させている。


言わば、私が“私のやさしさ”を騙していることになる。


妻が生きていれば、このような小細工は必要ないのだが、
いないのであるから、致し方ない。


少なくとも、私がこの世にいる間は、
このようなやり方を続けざるを得ない。


もしも、もしも、次の世界があるとして、
妻と再会するという奇跡が起ったなら、


私の心の中にたくさん溜まっていた“やさしさ”を
心置きなく放出することになる。


このような筋書きを考えてはいるのだが・・・。

過去の自分と未来の自分

私は最近、外に出かけた時の楽しみを見つけた。


それは、
小さな子供を見る楽しみだ。


何が楽しいのか。


子供は、予測不能な動きをする。
昆虫も、予測不能な動きをする。似てる。
妻も、予測不能な動きをよくしてた。


子供は無垢で純粋。濁ってない。


ゴミボックスの穴の中を、頭が中に入ってしまうくらいの体勢で
覗き込む子供。
母親に「もう行くよ」と言われ、引っ張っていかれる。


スーパーでほしいお菓子を手にする子供。
母親に「ダメダメ」と言われても、未練いっぱいの顔で、
お菓子を元に戻さない。


子供を見てると癒やされる。
以前は、妻が “無垢の癒やし” を与えてくれていたが、
その空いた穴を、子供が少しだけ埋めてくれている。


だから、私は子供を見る。


子供は、“未来” をたくさん持っている。
私は、“過去” をたくさん持っている。


その“過去” には、妻との24年半の生活がある。
その “24年半の生活” が今の私を形づくっている。


未来の私も、
“24年半の生活” を基盤として作り上げられることになるだろう。


妻の影響を受けた私の言動を、妻は空から見て、
いっしょに暮らした甲斐があったと思い、安堵するだろう。


何かを行った直後、
妻の影響を受けてることに気づいた時、
私の幸せがある。


それは、妻と融合している体感があるからだ。


過去の妻が、今、そして未来の私に影響を与えることになる。


今後も、妻と私は夫婦なのだ。