これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

心の安定を取り戻す

死別経験者が今の心情を、
「身体の半分を失っている状態」と表現することがよくある。


私も、正にそのような心の状態であり、
毎日、何か足りないと感じながら生きている。


2分の1あった妻が、
私の身体から離れて行ったことが原因なのは明らかだ。


当たり前だが、
体重が半分になったということではない。
心の中が半分になったということだ。


心の容量を量れる測定器は存在しないので、
そうなっているのがわかっているのは、本人だけである。


結婚当初は、私の心の中は、私一人で埋められていた。


でも、妻と生活していくうちに、
私の心の中に妻が入ってきて、
私2分の1、妻の2分の1という構成で、
私の心が出来上がり完成した。


これを、夫婦一体というのだろう。


私一人であった時より、強化された心になった。


しかし、
強化された心は、24年半で終了した。


今、私の心の中には、ポッカリと半分、空間が出来てしまった。


心が満たされないのは、これが理由だろう。


この空いた空間を埋めないことには、しんどい生活が続くことになる。


そうならないため、空間を埋めたい。


やはり、ここに入るべきなのは、妻しかいない。


しかし、
妻は、もういない人である。


でも、
姿がなく、返事がなくても、こちらから話しかけることは可能だ。


それを毎日続けることで、妻が空間に吸い寄せられ、
半減していた自己が、復活するような予感がする。


心の中に、妻の存在を感じることが大事だ。


そうなることで、
私の心は、
不安定から安定へと回復することになる。

“命”とは

現在、パックご飯が食器棚に30個(5袋×6)ほどある。
それはそれで、何ら問題ではないのだが、
正味期限が、全て今年の4月と表示されている点が問題なのだ。


消費期限ではないので、食べても問題はないのだろうが、
今、4月なので、今食べないと、味がどんどん落ちていく。


なぜここまで食べずにいたのかというと、
去年、7月から、パックご飯を辞めて、ごはんを圧力釜で炊くようになったため、
おいしいご飯を食べたいことから、
パックご飯から縁遠くなり、賞味期限を確認することもなかった。


1日1個食べても、1ヶ月かかることになる。


その間、冷蔵庫で保存しているお米は減らないため、鮮度が落ちるが、
致し方ない。


“もったいない”を優先したい。
5月の中旬までを、“パックご飯”月間にすることにした。


妻を亡くして1年程は、
食べることに全く関心がなくなっていて、
食べたいものもない状態だった。


今は、幾分、食事も楽しみの一つとなっている。


ただ、
一人で食事をしている時や、食器を洗っている時、
妻を思い出す頻度が高くなっていることに気づく。


“食事”と“命”は関係性が高いため、そうなるのだろうか。


“命”とは、
“体”と“心”をくっつけている接着剤の様なものと考える。


命がなくなるということは、
それまで一体であった“体”と“心”が分離し、
体は消滅して、心(魂)だけが残った状態だと考える。


“体”は永遠ではないのは明らかだ。


心(魂)は残ると言ったが、
これは科学的に証明された訳ではない。


体と共に滅びるのかもしれない。
体と同じく永遠なものではないかもしれない。


だとしたら、
妻はすべてなくなったということになる。


それは悲しいことではあるけれど、


そうであれば、それでいいと思っている。
私もいずれ無になるということなので。


生命とはそんなものだと思えば、気が楽になる。

“普通の人”ではなくなった

私が持っている “人との交流円”  の直径が、
小さくなっていると感じている。


“普通の人”は、
もっと直径が大きい円を持っているようだ。


かつての私は、
普通の人並みの大きさの円を持っていた気がする。


大きい円を持っていると、
他の人の円と交わる部分が出来やすくなり、
人との交流で、しんどさ を感じることはない。


円が小さいということは、
言い換えれば、話したい内容が少なくなっている状態だということだ。


お互いの円の交わりが多いほど、
話をしていても、お互いの満足度は大きくなる。


円が小さくなっている私は、
他の人の円との交わりが少ないので、
相手に話を合わす部分が多くなる。


“普通の人”が望む話題は、
世の中のトレンドに関すること、共通の知り合いの話、
家族の話、SNSやYouTubeの話、最近やったこと など。


これらが、その人の円の中にたくさん入っている。


私はというと、
一番話したいのは、“妻の話”であり、
上に挙げた話題はあまり関心がないものとなっている。


なので、私の円は小さくなっており、
他の人の円と交わる部分は自然と小さくなっている。


しかし、
“普通の人”は、私の円が小さくなっていることを知らない。


私に、普通の話をしてくる。
私は興味のない話に合わせるしんどい時間となる。


かといって、私が妻の話をすると、
今度は、相手がしんどい時間を持つことになる。


だから、私は、
人と会っても、妻の話は出来るだけしないようにしている。


でも、
私は、このような状態が嫌ではない。


関心のある妻のことを想っているだけで、
十分満足している自分がいる。


“普通の人”でなくなった私だが、
これは、妻に会えるまでの過程だと思うと、
何ら気にすることではないと思っている。