これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

秋と哀愁感

だいぶ涼しくなってきた。
蝉の鳴き声が、虫の鳴き声に移行しつつある。


体は楽になっていいのだが、秋の近づきを感じると
何か“寂しさ”、“哀愁”を感じるようになる。


夏は、
暑さとの戦いに多くの神経が奪われて、
“寂しさ”、“喪失感”に向く神経の量は少なかった。


これからは、
暑さ対応に向いていた神経の向きが、
一気に喪失感へと、方向が置き換わっていくのだろう。


更に、10月は、妻の命日、誕生日が控えている。


辛さ対応に多くの神経が注がれることになる。


体は楽になるが、心が辛い季節なのが“秋”だ。


よく耳にするのが、
“読書の秋”、“スポーツの秋”、“食欲の秋”、“芸術の秋”
“頭”、“体”、“舌・胃”、“感性”がフル回転出来る季節だ。


これらは、自分を高めるのにつながる事柄だ。


しかし、
「自分を高めて、どうするんだろう」と思ってしまう。


「そのことを、一緒に喜んでくれる人がいなくて、何の意味があるのだろう。」と思ってしまう。


私は、聖人ではない。



周りが薄暗くなった中、
外出先から自宅へ向かって自転車を漕いでいて、
住まいのマンションが目に入った時、
何とも寂しい気持ちになった。


秋の近づきを感じる涼しさ、周りの薄暗さ、妻のいないマンション、
これらが、束になって、寂しさを増幅させる。


哀愁感というのだろうか。
「愁」は、秋の心と書く。


妻は、「四季」の中で、どれに当たるだろうか考えて見た。


「ほのぼのとして新しさを感じる」、「活動的な」、「哀愁を感じる」。
「クールで理論的な」。


やはり、秋が一番近いかな。


面白い言動をしていても、
妻には
どこか哀愁を感じさせる何かがあった。


妻に惹かれた理由として、
価値観が近かったことも一つだが、
この哀愁感が大きかったと感じている。


この哀愁感は、
私を不思議な気持ちにさせる力があった。


何度もこの言葉を使うが、
私にとって、妻は、唯一無二の人だった。

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