これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

心を整える

妻がいたときは、その存在だけで、大きな喜びになっていた。
妻を喪って、大きな喜びはなくなった。


しかし、
妻を喪った今、小さな喜びならある。


例えば、
テニスをした後、
持っている株が上がった後、
“新宿中村屋のカレー”を食べた後、
いい音楽を聴いた後、
スポーツで、応援するチームが勝利した後 など。


小さな喜びを100個ほど積み重ねれば、大きな喜びの3%位にはなる。
3%しか」と思わず、「3%も」と思えばいい。


大きな喜びには期待しなくなった。 


愛する人を喪った人にかける言葉のなかに、
「これからは、自分のために生きればいい」というのがある。
いい言葉だ。


しかし、
この言葉は、私には当てはまらない。
やはり、妻のために生きたいという思いが残る。


だが、妻はもういない。


“いる妻”から、“いない妻”に変ったけれど、
妻を想うことは出来る。


“中程度の喜び”にはなるが、
“3%の喜び“よりは、ずっと心が安定する。


妻は、ちっぽけな地球から、広大な宇宙へ移った(帰った)。
妻にとって一番、安全、安心な場所だ。


そこは、
死の恐怖は存在しない、癌になることもない、
部屋の掃除、家事は必要ない、
時間を気にすることもない、
人と比較する必要もない。


俗世界で多く見かける、
時間を気にし、効率を重視して、あくせく行動している人、
地位、名誉、お金、ブランド品を持って優越感に浸り、喜んでいる人たち を
空から眺めて、バカだなあと笑っていればいい。


こころに透明感を持った妻にとっては、地球にいた時より、
ずっと、居心地のいい空間だろう。


妻が、その場所で幸せであったなら、
私は、安心してこの地球で生活することが出来、
3%しかなかった日々の喜びが、100%に近い喜びに変るだろう。


逆に、
妻が宇宙にいないとしたら、


私は、
“3%の喜び”を淡々と味わいながら、日々を過ごし、
与えられた寿命まで生きて、
妻と同じく“無”になればいいだけのことだ。

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