これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

5分の1

1日の中で、心が落ち着く一定の時間がある。


それは、
死後、妻と会えるのではないか」という感覚が、
そんなことあるはずがない」という感覚を上回る時間帯だ。


1日で数回、心の中で、そういう状態になる時がある。


割合で言えば、
「会える」という感覚が、5分の1くらい体の中に宿っている。


残りの5分の4は、
「もう二度と会えない」の方で、
どんよりとした雲(喪失感)で覆われた感覚の時間だ。


5分の1(20%)は、他の人よりも高い確率であるかもしれない。
人からは、“妄想の時間”だと言われるかもしれない。


でも、私は、もっとこの時間帯を増やしたいと思っている。


せめて、1日の半分くらいまで。


そうなると、体が幾分楽になるだろう。


残りの“喪失の時間帯”について、
仕事をしている人は、
その間、幾分かは喪失感から距離を置くことが可能だろう。


私の場合は、仕事をしていないので、
運動をしたり、図書館に行ったり、なるべく人と話をする時間を取ったり、
それらを小刻みにつなぎ合わせて、
喪失感から気をそらす時間を増やそうとしている。


生きている間、
不平等、不公平はつきものだが、
“生まれること”、“死ぬこと”は、
すべての人に1回ずつ平等に与えられる。


妻が亡くなるまでは、
「“生”の後に“死”が来る」というように、
“生”と“死”を時系列に考えていた


妻が亡くなってからは、
“死”について深く考えるようになり、
“死”について考えると、
自然と“生”について考えるようになることが分った。


生と死は、別物ではなく一体であると、理解するようになった。


そうなると、考えは拡大して行き、
“生”と“死”は1回きりではなく、
複数あるのではないかと考えるようになった。


欲張りになった。


「お金や物」、「健康」、「人からの見られ方」、に対しての無関心は
続いているが、


死のあとの、生(妻との再会)については、
欲張りで、わがままな要求をしたくなっている。


この“欲張り”が、
私が生活するうえでの、
唯一の、エネルギー源となっている。

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