これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

供養の働き

私は、妻を失い、
人生の目的を見失い、体温は下がり、
毎日の生活は、グレーの中で過ごすことになった。


こころの中に空洞を感じ、
それを埋めたくても埋められないモヤモヤ感がつきまとう。


死別経験者の中には、この空洞を埋められる人もいるだろう。
でも、私は埋められない方に入る。


妻が亡くなり、もうすぐ5年になるが、
この空洞は、埋まらないことがわかった。
このまま、空洞を持ったまま生きて行くしかないのか?
しかないだろう。


今としては、妻に対してやれることは、
妻を想うことだけになってしまった。


私は、自分のことは、
嫌いではないが、それほど好きでもない。


しかし
妻を想っている時の、自分は好きだ。
何か、しゃんとした感じになっている。


空洞があっても、妻の供養は続けられる。


「供養」は、
「人」と「共」に「養う」と書く。


妻を想うことで、
私の心は養われ(成長し)、
妻も私の心を受け止め、心が養われる。(妻が今も存在している前提として)


供養を続けて、何十年後かに、
続けた甲斐があったという場面に出くわすかも知れない。
そういう場面をほんの少しだけ期待している。


ただひたすら、供養を続けること、
今の私にとって、他に選択するものはない。


寂しい生き方と捉える人もいるだろう。


人からそう見られて、しかたのないところもある。


でも、
どんな形であれ、
妻と関わっていることが、私を私らしくすると思っているので、
生き方に見栄えは必要ないと思っている。


空洞は、
気にならないと言えば、嘘になるけれど、
それを背負った生き方への対策を、
心の中の妻と相談しながら、少しずつ練っていこうと考えている。

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