これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

妻を探す

妻はもういないのに、
何故、私は、妻を探すのだろう。


姿を見せないことはわかっている。
しかし、どっかに隠れているはずだ。


その見えない妻を探し出すことが、
死別経験後の、私の仕事であり、趣味であり、宝探しとなっている。


そうしている時、
子供の時の、“かくれんぼ”のように、
童心に返った気持ちになり、わくわくしている自分がいる。


妻は、絶対に姿を現さないから、
こちらとしては、予測するのが限度だ。


その予測が合っているのかがわかるのは、
私が亡くなる瞬間だろう。


それまでは、予測する楽しさを満喫すればいい。


妻の隠れている場所は、私のすぐ傍かもしれない。
姿が見えないのだから、これも隠れているうちに入る。


あるいは、生き物の体の中に、隠れている場合もある。


例えば、
食堂から出た時、店の前をウロウロしているハトがいる。
「これは妻に違いない !」と心の中で叫ぶ。


でも、そのハトは、
「違いますよ。私はハトです」と無言で否定するかもしれない。


とぼけているのかもしれないが、
どちらにしても、正解がわかるのは、私が死ぬ瞬間なので、
あえて、問い詰める必要はない。


このような話を人にすると、
「この人、大丈夫か」と心配されると思うので、


1人で静かに楽しむことにしている。


でも、
「いるべき人」がいないというのは、大変なことだ。
心に空いた穴は大きい。


「隠れている妻」を探そうとすることで、
多少、こころの痛みは緩和される。


私としては、この行為は価値あるものだと思い、
見つけようと努力を続けていれば、
私が亡くなる瞬間、
妻が、ひょっこり姿を現すことを想定している。


ちょっと “妄想感” が強すぎるかもしれないが、
結果はともかく、私のこころを支えるルーティンであることは確かだ。

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