「二」か「一」か
妻が生きている時は、明らかに二人の人間が存在した。
でも、今は、私という一人の人間しか存在しない。
果たして、そうだろうか。
今でも、二人が存在しているようにも思える。
リビングに置いてある箱の中には、妻の骨がある。
「骨」が人間でないとしたら、
私という一人の人間だけが存在していることになる。
物理的には、確かにそうだ。
でも、「その骨」には、私の想いが染みこんでいる。
「骨」と「想い」が一体になっていると考えたら、
「二つ」が存在している と考えていいのではないか。
精神的には、
今でも、二人存在していると考えていい。
「骨」の方が、写真や動画よりも確かである。
妻は、私にとって、
家族の一員であり、話しかける相手であり、いるだけで癒やしになり、守る対象であり、
精神的な支えであった。
今は、
物理的には、
家族がひとり減り、話しかける人がいなくなり、癒やされる対象が消え、
守る人がいなくなり、精神的な支えがなくなった。
確かに、他人から見たら、私は、ひとりになっている。
でも、
私には、一人になっていると感じている時と、
二人を継続していると感じている時間がある。
どちらも正しいのではないか。
物理的に考えている時と、精神的に考えている時が。
交互に訪れているためだろう。
物理的に考えている時、心の中は、
寂しさ、悲しさ、喪失感、後悔 でいっぱいになっている。
精神的に考えている時は、
一人ではないと感じていて、寂しさ などはない。
この交互に訪れる波を乗り越えながら、
残りの人生を送ることになるのだろう。