これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

「難民映画祭」に行きました

毎年、9月から10月にかけて、「難民映画祭」が催される。
私は、この映画祭を5,6年前に知ってから、
妻が闘病中の年(2017年)を除いて、毎年行っている。


それで、先日も行ってきた。
350人前後が定員のところ、ほぼ満席だった。
数えた訳ではないが
男女は半々、10代から70代くらいまで、幅広い世代が来ていて、
30代くらいが1番多かったように見えた。


多くの作品がドキュメンタリー風で、
演技にリアルさがあるところがいいと思っている。


私は、通路側の左端のシートに座った。
上映途中で、30代くらい
(顔を見ていないので合っているかはわからないが)の女性が
「すみません」と声をかけて私の右隣のシートに座った。


その女性は、座ってからしばらくして、頭の角度が下がり始めた。
おそらく眠くなり、ウトウトしていると予想される。
(右90度はギリギリ視界範囲のため、はっきりではないが、動きはわかる)
わざわざ自分の意思で映画を見に来ているのに、
何故寝たりするのだろうと思った。


その時、私は、妻がこの女性に乗り移っているのではないかと思った。


妻は、難民映画祭には関心がなく、当時「私も行く」とは一度も言わなかった。
だから、私の隣に座ったものの、寝てしまうのだと、自分勝手に解釈した。


その女性は、30分ほど頭が下がっていたが、突然頭が上がり、
全く頭が微動だにせず、真剣に映画を見始めた感じだった。
動きが妻に似ている。


しかし残り30分で再び頭が下がった。


妻が乗り移っているというのは、少々無理があると思ったが
それはわかった上で、この女性を妻に見立てて
妻と一緒に映画を見ている感覚を味わった。


しかし、なぜ私は難民映画を見に行くのだろうか。


難民と妻、
どちらも不条理な生きづらさを抱えている点では重なる部分がある。


難民の場合は、
本人のせいではないのに、苦しい人生を強いられている。


妻の場合は、
生活は最低限満たされているが、心に於いては難民と言える。
本人はいいところがあるのに、うまく生きることが出来ない人、
妻は、正にそういう人だった。


私はそのような人を見ると、
何とかしてあげたいという心が動き、
同時に愛おしさも湧き上がってくるところがある。


妻の生きづらさは自閉症のひとつである“アスペルガー”
(病院でそう診断された訳ではないが、言動の節々で
そう思われるところがあり、本人も認めている)
から来ているのだと思う。


この様なことから、
私が “難民映画祭”を見に行く理由が見えてくる。

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