これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

妻を愛したということ

妻は私にとって唯一無二の人だった。


私は妻に対して、面的ではなく、点として接してきた。
広角レンズに写った被写体ではなく、一点にフォーカスした被写体だった。


振り返って見て、妻も私に対して、同じだったと想像する。


妻は世間が作った標準枠からは外れていて、
独自で作った枠の中に収まっている人だった。


その枠の中にいる妻を私は愛した。
そういう妻だから、私にとって唯一無二の人になった所以だと、分析する。


妻は利他的であった。
ただ、誰に対してもというわけではない。
“私に対して”という限定がつく利他的であった。


悪く言えば、私を優先的に考え、自分を大切にしないで私に関わっていた。


例えば、旅行の行き先、レストランの選択、などすべて私が決めるようにさせていた。
どこに行きたい、何を食べたい ということを、ほとんど口にしなかった。


私もどちらかというと利他的なところがあるため、
妻には私よりも自分自身を優先してほしかったのだが
妻はそうしなかった。


見方を変えれば、妻はそうすることで幸せを感じていたのかも知れない



死別経験者の多くが、“配偶者の命と自分の命の差し替え”が可能なら、
「躊躇なくそうしたい」と思う人が多いと感じる。


何が、そういう思いにさせるのだろうか。


相手を自分よりも大事な人だと思い、
「その人の苦しみが私の苦しみを超えてはいけない」
と考えているためではないだろうか。



私自身より大事な妻がいなくなった。


“一番大事な命”は消えて無くなり、
“二番目に大事な私の命”はまだこの世に存在する。


この世に残っている私は、この世にいない妻に対して
何をすればいいだろうか。


姿が見えなくても妻を愛することは出来る。
しかし、その見えない妻は、この世だけでなく、あの世にもいない可能性だってある。
あの世自体がないかもしれないからだ。


あの世の有無を知ることは、
少なくとも私が生きてる間は不可能だ。


今、大切なのは、


結果がわからなくても、グレーなものを求め続けることに価値がある、
「今は答えが出なくてもいい」と、肩の力を抜いて考えること。


この世にいる間は「それで良し」と思うことなのかも知れない。

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