これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

今後 長生きする価値は

日経新聞で面白い記事を目にした
巣鴨のあるネイルサロンでは、
60歳代で60%引き、70歳代、80歳代と年齢が上がるに従って
値引率が上がり、100歳以上で100%、つまりただになるという記事だった。


長生きすると、いいことがあるという一例だ。


しかし、これはお金においての話しであって、


“こころ”においてとなると、違ってくる。


妻を亡くした後の生活において、「長生きする意味があるのだろうか」と
まず考えた。


一人の生活になって2年が過ぎるが
以前はいい事だったことが、今はどうでもいい事に変わってしまっている。


いい事が無くなってから、寂しいという感情が一日を覆うようになった。。



そこで、こころの中を整理するために


悲しみの度合いを、悲しみの感情が高まる場面ごとに、
以下に書き出してみた。


○朝起きてから昼にかけての午前中
 (その日、まず最初に、妻がいないことを認識することになる)
                            95%


○ 「スーパーやコンビニでの買い物中」、「家での食事中」、
  「水洗いをしている時」               70%


○  部屋の整理中に、


  妻が使っていた「文房具」「傘」「時計」、「ノートに書かれた妻の文字」  
 「妻が使っていたシャンプー」等を見た時        70%


○ 妻と旅行したことのある国内・海外の場所が、テレビで紹介されているのを
  見た時                       70%


○ 外出時、妻の闘病中のことを想い出す場所である、
 「調剤薬局」、「福祉事務所」、「がんセンター」等 の横を、
  自転車で通過する時                  60%


○ きれいなメロディーだが哀愁感のある曲が耳に入った時                                          80%


 私の場合、まあこんな感じです。



一方、わずかながら、“こころの安らぎを感じる時間帯”もある。


○ 朝起きた時、夜寝る時、出かける時、帰宅した時 に、
  遺骨箱を撫でながら妻に声をかける数秒の時間。


○  生前の妻の面白い言動を想い浮かべる時、


この安らぎが、“こころ全体を覆っている喪失感”の一部を消してくれる。


妻を思い続けている自分を応援している別の自分がいて、
「孤独ではないな」という感覚もある。
そう感じているときは、心地よい。


毎日の生活の中で、
辛さと安らぎが、交互に現れたり、混在して現れたりしている。
しかし、圧倒的に辛さの割合の方が勝っている。
(寝ている時だけは、意識がないため、どちらも現れない) 


こういうこころの状態なのに、長生きして、いいことはあるのか。


「もう少し生きた方がいい」という見えない声が聞こえない訳でもない。
これは、体が感じていることであり、頭を通過していないので、
その感覚を言語化は出来ませんが。


ただ妻に対してやることがまだあるような気もする。
何年後かに、それが何だったのか分かる時が来るかも知れません。


“見えない声”が“私を生きさせている”のかもしれません。
取りあえず、その声に従って、生きながら考えます。

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