これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

生きようとする姿

なぜ子供が可愛いいか。


まだ持っているものが少ない状態で
今持っているものを、目一杯使って何かをやろうとしている姿が
心に響く。


動物も、人間に比べて、持っている能力が少ない。
そういう生き物が、生きるために、
持っているものをフルに使っている姿、


これらは、私の心を動かしてくれる。


逆に、
生きるためのものを、他の人よりたくさん持っていて、
更に今以上の生活を目指している人に対しては、
余り心が動かない。


そういう人を幸せに出来る人は別にいて、
社会的地位、財産、高い給料、高級住宅所有、
高級レストランでの食事などをライフワークとしている人、等
物質的に高いレベルを満たしてくれる人であろう。
(人間的に魅力があれば更にいいだろう)


私はその役割を果たすことは出来ない。


人には、それぞれ役割がある。


先日亡くなった野村元監督は、
他球団でお払い箱にされた選手を入団させ、
再生させる高い能力を持っていた。


前球団で隠れていたその選手の才能を探し出し、
それを開花させて、十分、更にそれ以上の活躍をさせていた。


エリート選手を集めて、試合に勝っていく、
これも社会での生き方の1つで、正しいと思う。


しかし、
私は、それよりも、
「一見劣っている人の長所を見つけ、幸せにし、
その結果、自分も幸せになる」
というような人生の方が合っている。


表面上、優れているように見える人よりも、
隠れたところに多く「いい面」を持っている人の方が、
トータルでは、質の高い人が多いと、経験上感じている。


妻との結婚生活は、
言ってみれば、私が求める人生を体現する舞台だった。
そのような機会を提供してもらっていた。


しかし、
その舞台は、完結する前に閉ざされてしまった。


やるべきことを、やり切らない状態で終わってしまうことは、
何とも煮え切らなく、気持ちが悪い。


「この舞台」の再開は、100%無いことが確定している。


では、私は今後、何を目的にして生きればいいだろうか。


結論を言えば、それは、もう無い。
今後、新しい生きがいが発生することもない。


言い切っても大丈夫のように思える。

少し緩めて
“質感”を伴わない「生きる目的」 ならば、
持つことが出来そうだ。


それは、


「妻との繋がりが切れていない」ことを信じて生活すること。
その後に、
何か「いいこと」があるはずだと
自分に言い続けること。

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