これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

子供 動物 妻

「子供」、「動物」、「妻」、
この三つには、共通点を感じることがある。


子供や動物は、未来の事を考えず、
今、目の前にある事だけに集中しているように見える。


公園などで、小さな子が目的物に向かって、走っている姿、
前後の事は考えていない。
頭の中は目的物一色のように思える。


これを“無邪気”というのだろう。


動物も、
頭の中を覗くことは出来ないが、
おそらく、今、生きることだけを考えて、
“今”に全力を注いでいるように見える。


当然、人間の大人も“今”に全力を注いでいるが、
過去に経験した事、そして将来についても、頭の中から外してはいない。
無邪気な部分は、そぎ落とされている。
(たまに、無邪気な大人を目にすることもありますが)


子供の事を“天使”と呼ぶことがある。
この透明な心を持っている対象としてこう呼ぶのであろう。


大人は天使と呼びにくい?


大人の中でも、透明な心を持っていると言われている人は
女優や身の周りにも多くいる。


だけど、子供のように、何も考えずに自然に出ているものとはちょっと違って、
どこか人工的なものを感じる。


これはしょうがないこと でもある。


子供が持っている天然の透明感だけだと、
世の中で、生き難くなってしまうはず。


生きるためには、多少のズルさが必要だと思う。
(“ズルさ”を、“生きるための知恵”と言い換えることにより、
悪い印象はなくなる)


私も会社勤めの時は、自分を有利にし、そして、困らないようにするため、
適宜、ズルさを用いていたように思う。


子供や動物にもズルさはあるが、
相手に、すぐにバレてしまう“可愛いズルさ”のように思える。


なので、子供の間は、親のサポートが必要になる。


妻と最初、出会ったとき、
妻の持っている天然の透明感を、すぐに感じることが出来た。


それまで出会った女性は、みんな、透明感は持っていたとしても、
大人として不可欠な“ズルさ”も、ある程度持っていた。


妻は、
言ってみれば、十分に大人になっていない人で、
子供のままに近い人だったとも言える。


その代わり、子供が持っている純度の高い透明感を
残している人だとも言えた。


私のように、圧倒的に精神的なものを求める者としては、
妻は、最良の妻になり得ていた。


物や事、精神的なものをバランス良く考える普通の人にとっては、
妻のような女性は、最良の妻にはなり得ないと思う。


妻は、純粋だけれど大人になっていない部分、
家の外での生活では、生きづらくなっていた。


妻は、家の中では明るかった。
そのままの自分で大丈夫なのだという安心感が、ユーモアを連発し
私を面白がらせてくれた。


また、歯に衣着せぬことばを、ためらいもなく発して、
痛快な気分にさせてもくれた。


一旦、外に出ると、表情は一転固くなり、あまりいい顔ではなかった。
両親や姉に対してさえ、固かった。


妻が亡くなったことで
“純度の高い透明感”  に接する機会が減った。


外を歩いていて、
すれ違う子供の仕草や、鳥や動物の動きに
目をやることで、
少しだけ、埋め合わせをしている。


私は、
少し、“仙人”のような人間になってしまった感がある。

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