これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

軸を無くした後の生活

最近、コロナ後に、生活様式、価値観が変るという話題を
頻繁に耳にするようになった。


私たちは、どのように変わり、どう生き、対処して行けばいいのか、
というフレーズも、増えている。


私について言えば、
ほとんど変ることはないだろう。


既に、妻を亡くした2年9ヶ月前、
大きな変化を余儀なくされているからだ。


妻という生活の軸を失った。


軸のない生活はどうすればいいか、ずっと考えている。
まだ、形は確立されていない。


実際のところ、妻に代わる新しい軸を見つけ出すことは
不可能だと考えている。


それなら、軸無しでの生き方を考えなくてはならない。


野球で言えば、絶対的エースがいなくなった時、
チームはどう立て直していけばいいのか。


数名で短いイニングを繋ぎながら、凌いでいくしかないだろう。


強くない軸を数本束ねて、以前あった強力な軸近くまで強度を
上げる方法しかないだろう。


私の場合、以前の太く強い軸一本に頼りすぎていたため、
細い軸を用意していなかった。


束ねるための、軸がどう考えても見つからない。


これから見つけようとしても、
喜びに繋がるほどのものを、見つけ出すのは、
断言とは言わないまでも、ほぼ無理だろうと思っている。


30代40代だと、これからの人生がかなり残っているので、
軸を見つけない訳にはいかないだろうが、


私のように、60代で残りの人生がそれほどあるわけではない者にとって、
軸のない人生を送っても、それほど支障がないように思える。


戦争経験者の年齢が、
戦争の悲惨さ を伝えるのに、限度に近づいており、
忘れ去られることがないように、
その記憶を伝える活動が活発化している。   


“戦争の経験”と“妻との生活”は、
ニュアンスが異なってくるが、


相手の許せる範囲で、妻のことを話す。
(姉弟妹や、心許せる友人等、範囲は限られるが・・・)


自分自身においては、
想いの鮮度を落とさないようにすることで、
この世で、ただ一人、
妻というひとりの人間を、忘れない存在で居続けること、


こういう行為は、
軸がなくても、
それに代わる役割を
果たすように思える。

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