これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

“後悔”の存在

一日中、何か胸の近くに引っかかるものを感じながら生活している。
この状態は、寝ている時を除いて、常にある。
それを感じるようになって、もう3年になる


その引っかかるものとは何か。
それは、“後悔”だ。


この後悔の存在が、
毎日の生活を気持ち悪くさせている犯人だということが
最近分かって来た。


悲嘆の原因は、いろいろあるが、
私においては、“後悔”が一番影響している。


今までも、後悔することはたくさんあった。
しかし、それは、だいたいにおいて、やり直しのチャンスを
与えてもらっていた。


励ましの言葉として、よく使われる。
「七転び八起き」、「失敗は成功のもと」、「禍を転じて福と為す」
という“ことわざ”が、それに該当する。


しかし、今、存在する“後悔”は、
それまでのものとは全く別物と言っていい。


後悔の対象となっている人(妻)が、
絶対に戻ってこないという現実があるからだ。


相手がいないので、やり直すことが出来ないのだ。


これが、ずっと抱えている難題なのだ。


目の前にしている“後悔”は取り除けないのだから、
あるものはあると認め、
「それとの付き合い方をどうするか」に
考えを改めなければならない。


私が持っている後悔は、
今、頭に浮かぶところでは、3つあり、


1、妻に倹約を強いたこと。


2、義父の葬儀に、本人が呼ばれなかったことからくる
  妻の悔しさ、辛さに気付くことが出来ず、
  心のケアをしてあげられなかったこと


3、妻が、亡くなる一週間前に希望した“ホスピス”への移行を
  叶えてあげられなかったこと
  (それまで、在宅緩和ケアを行なっていた)


以上が、心の中で引っかかっている後悔だが、
視点を変えて、以下のように見つめ直すことも出来る。


1’ 65歳以降の二人の生活をより良くするための選択だった。


2’  妻は、その辛さを、全く表面に出さなかった。
     察することは難しかったかも知れない


3’ 妻は、ホスピスでかかる高額な費用を聞いて、
  「じゃあいい」と答えた。
   これから一人残される私の生活を考慮しての返事であり、
   私に対する心配りだったのではないか。


喪失を体験した人の多くが、後悔を持って生きていると思う。
どうしても、普通、否定的な考えに傾きがちだ。


相手を愛していたのは間違いなくても、
瞬時瞬時の判断は、正解はなく難しいものだと思う。


そう考えれば、少し気持ちが楽になる。


でも、よく考えれば、これというのは、
自分の心のケアのための施策であって、
自分への慰めに過ぎないのではないか。


いない妻には何も影響しない。
自分だけが苦しむことは、さほど問題ではない。


だとしたら、
私が“後悔”を軽減しようとする作業は、
意味のないことになる。


ただ、ひとつだけ、
この様な場合があるとしたら、意味のあるものとなる。


それは、
妻が、空の上から、私を見ている場合だ。


非科学的だが、希望は希望として、
頭の中のオプションとして、持っておきたい。

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