これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

「悲しみ」と「妻」

今の私の体の成分は、
“悲しみ”が97パーセント位占めている感覚だ。


残る3パーセントの“希望”は、片隅に追いやられている。


3年3ヶ月もこの状態が続き、常態化すると、


その状態に
不思議と体と心が、慣れて来ているのがわかる。
当然、好ましい状態とは言えない。


しかし、慣れては来ている。
言い換えれば、諦めか。


人により、悲しみの割合が時間とともに、
減っていく人もいるだろう。


私の場合は、この状態が続くと思っている。
開放されるのは、私が死ぬ時だろう。


それを前提として、
これからの生活に向き合っていかなければならない。


この“悲しみ”は、
妻がいないことで発生している。


頭の中の妻が作り出している。


“妻” は人、“悲しみ” は感情表現
ジャンルは違うが繋がっている。


“悲しみ”は、妻が変化したものか。


であれば、悲しみを粗末に扱ってはいけない。
悲しみに対して、やさしいまなざしで向き合わなければならない。


悲しみと向き合って生きることは、
妻と共に生きて行くことに繋がる。


かなり難しい生き方が要求されるが、
不可能ではないと思っている。


悲しみを、
妻と同一と思えば、付き合っていける。


はじめ悲しみに出会った時、
うっとうしいと思うのが普通だ。


しかし、それを凝視してみると、
後ろに妻の姿がうっすら見えてくる。


なんだ、妻だったのかと安堵する。


見かけだけで、相手を決めつけてはいけない。


“悲しみ”を悪者にしてはいけない。
それは妻だから。

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