幸せな“逝き方”
3時間ほど前、大きな揺れの地震があった。
福島・宮城で震度6強、M7.1のようだ。
今回の揺れは、数日後に起こる大地震の予兆かもしれない。
小さな揺れの地震は定期的に経験しているが、
今回は、一瞬、「ついに来たか」と思うほどだった。
その時、私は、
自分の部屋のベッドで横になってテレビを見ていた。
揺れが大きくなっていくか、収まっていくか、
数十秒ほど揺れている間、
私は、息を殺して、身動きせずに注視していた。
幸い、揺れは大きくなるのではなく、収まっていく方だった。
このまま揺れが大きくなった場合、
身の危険に遭遇する場面があることも、想定していた。
以前なら、そういう想像をした場合、
恐怖を覚えたはずだが、
今回は、それほど恐怖心は出て来なかった。
妻の死を経験して以来、
「命」、「死」について、頭の中で考えることが多くなっているため、
死に対して、特別に違和感はなくなっている。
そのため、
自分の死についても、特別なものだとは思わなくなっている。
自分で死のうとは思わないが、
自分が、死に遭遇することになった場合、
「それは運命だ」と言って、受け入れるのではないかと
考えていたが、
その予想どおり、
今回の揺れに対して、冷静だった。
部屋が潰れて命を失うような状況になった場合、
私はどういう行動を取るかを、
揺れが始まった直後、瞬時に考えた。
おそらく、
妻の遺骨箱が置かれている寝室に移動して、
それを抱きかかえて死んでいく姿が
頭に浮かぶ。
妻を亡くする前は、
“生き方”ばかりを考えていた。
亡くした後は、
“逝き方”を考える様になっている。
「地震」は、
私に残された唯一の幸せな“逝き方”を
提供してくれる可能性を秘めている。