これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

3年4ヶ月が過ぎて、考える事

妻が亡くなって、3年4ヶ月が過ぎた。
そんなに経ったのかという感じだ。
3年も経てば、
悲嘆は、少し軽減しているだろうと当初想像していたが、
そうではない。


妻を亡くして1ヶ月くらいは、精神がキリッとした感覚があり、
表面上は、「自分は元気だ」という感覚があった。


“ショック” が交換神経を刺激し続け、形を変えて興奮状態となり、
錯覚を起こしていたのかもしれない


体は正直で、
妻が亡くなった後、半年ほど、ぜんそく状態が続いた。
寝ている時も辛くて、なかなか眠りに着くことが出来ず、かなり辛かった。


「大きな病気が潜んでいないかどうか」を調べたくて
一度病院に行ったが、気管支喘息以外の病気はなかった。


病院への通院は1回だけにした。
自分の判断だが、この症状は精神的なものから来ていると予想していたから、
ここからは、自分の問題だと考えた。


そして、
半年ほどかけて、ぜんそくは治まっていった、


喪失感が及ぼす最初の洗礼は終わった。


体の異常は過ぎ去ったが、心の悲嘆は続いている。


ぜんそくに気を取られている期間が終わり、


今後生きて行く意味がないことに気付き始めた。


価値があると思っていたお金、健康、社会的評価、すべてが
ほぼ無価値なものに変化した。


これらは、妻がいないと「だだの石ころ」になってしまう
ということが分かった。


これら石ころになったものを、宝石まではいかなくとも、
価値のあるものに戻す事を考えた。


「健康」と「人とのコミュニケーション」を意識して、テニスを再開したり、
甥や姪にお金を配るという目的を作り、
株式投資や倹約をすることが価値のあるものであると思わせようとした。


これらの意識改革は、多少効果はあった。
しかし、それは、体の中を心地よくことには効き目があっても、
芯にあるこころの心地良さには繋がらないということを
改めて確認することになった。


喪失感の取り除きは、
難題というか、ほぼ不可能と思ってしまう。


この難題を解決する処方箋は、
妻との生活が復活すること以外にないからだ。


それは無理な要求だろう。


そういう、どん詰まり状態になると
人間、スピリチュアルな世界に希望を託してしまう。


妻が天国に存在する事が確約されたなら、私の心の悲嘆問題は
全て解決する。


しかし、それは非科学的なことで、世間では認められていないことである。


科学はまだ若く、スピリチュアルに追いついていない
ということであれば、嬉しくなるが、


結局、
スピリチュアル科学と肩を並べることには、無理がある」
という結論にたどり着く。


喪失感はなくならないことがわかったので、


今後の生活は、


「喪失感とのつきあい方」を考えるステージに入って行く。

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