これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

妻的な人

生きてる妻を見ることがなくなって、もうすぐ4年になろうとしている。
街を歩いている時や、電車に乗っている時、
妻に似た外見の人に、まだ出会っていない。


もし出会ったとしても、嬉しくはないだろう。
それは、外見が似ているだけであって、妻ではないからだ。


外見においては、そうなるが、
雰囲気が近い人に出会ったら、おそらく、少しだけ嬉しくなると思う。


視覚的なものよりも、感覚的なものの方が、
それを通して、妻を感じるものがあるように思えるからだ。


ただ、雰囲気の面で妻に似た人、
つまり妻的な人には、まだ出会っていない。


出会いにくい理由は、ある程度予想がつく。


妻は、あまり積極的に外に出る人ではなかった。
派遣の仕事で、しょうがなく外に出ることや、
時々、気晴らし感覚で、電車に乗って買い物に行ったりしていたが、
積極的に人に関わろうとはしていなかった。


世の中に、妻に似た感じの人はいたとしても、
そういう人は、外に出てこないので、
目にする確率は低くなると考える。


人においてはそうであるが、
「鳥」、「動物」、「昆虫」や、「赤ちゃん」、「小さな子供」
動きを見ている時、妻を感じることがある。


なぜそうなるのかは、ある程度分かっている。


動物や赤ちゃんは、ほぼ“本能”、“素”でもって動いているからだ。


ここに、妻と共通なものを感じる。


「人間の大人」は、素だけでは生きづらくなるため、
生きる知恵を備えてくる。
「忖度」、「同調性」、「情報」などの武装技術を習得して行動するようになる。


妻は、この様な武装技術をあまり持っていなかった。
そのため、“素”を感じやすい人だった。


妻と接していると、武装してない“透明性”を感じていた。


同時に、守らないといけない人 だとも思った。


妻を守ることが、
生きがいであり、義務であり、仕事だと思っていた。


守りたい人が目の前から消えたことで、
私の、やるべき仕事も、人生の道半ばで、消えていった。


人生で、最もやりたかったことが、消えてしまった。

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