「会話」か、「ひとりごと」か
毎日、平均4回、妻の遺骨箱に語りかけている。
「朝、起きた時」、「出かける時」、「帰宅した時」、「夜、寝る時」、
かける言葉は至ってシンプルだ。
「おはようございます」、「テニス行ってきます」「とんかつ食べて来ます」等、
「ただいま、帰りました」、「お休みなさい」
語りかけというより、挨拶という感じだ。
言葉は少なくても、気持ちが入っているから、
これでいいと思っている。
妻からの返事はないが、私の声は、聞こえているはずだ。
でも、妻が存在しないのであれば、
私は「ひとりごと」を言っていることになる。
私は、毎日、ひとりごとを言い続けるのだろうか、
そうではなく、居る相手に語りかけているのだろうか。
もし、「ひとりごと」になっているとしたら、
むなしいというか、私は無駄な事をやっていることになる。
そして、
遺骨という「物」に話しかけている“変な人”ということになる。
存在していなくても、
「そのように相手を思う気持ちを持ち続けることが大切なのです」
と言ってくれる人もいるだろう。
しかし、
”自分の心のケア”だけが目的だとしたら、
遺骨箱への声かけを続ける気にはなれない。
妻がいると思うから、毎日声を掛けているのだ。
妻の存在の有無は、実際は、私には分からないし、
それを伝えられる人も、この世には存在しないだろう。
私が生きている間は、
このグレーな状態と向き合っていかなければならない。
「妻が“無”になっていること」が判明した時のみ、
遺骨箱への声かけが停止となる。
ということで、
私の遺骨箱への声かけは、
私が寝たきり状態にならない限り続くということだ。
“自分の健康維持”は、
妻亡き後、目的ではなくなったと思っていたが、
こう考えると、目的だと思えるようになってくる。