これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

インターネット繋がらず

20日の夜から、インターネットは繋がっているのに、
“このページに到達出来ません”という表示が出て、
サイトが開けない状態が続いていた。


今まで、インターネットが繋がらない事態は何回か経験していて、
その時は、モデムの電源の抜き差しをすることで、回復に至っていた。


しかし、今回は、今までのトラブルとは違っていた。


昨日、少しだけITに詳しい知人に聞き、
スマホのネットワークを使うことで、サイトを開けることが
出来るかもしれないということだった。
そこで、それを試したところ、
サイトが見れるようになった。


しかし、それは、スマホのネットワークの力を借りている訳で、
パソコン独自で見れているのではない。


私の持っている格安スマホでの契約内容では、
費用がかさむことになる。


一時は、
ブログの更新が、しばらくの間、出来ないかもしれないと
考えていたことを思うと、
更新が出来るようになったことは良かったが、
スマホのパケット通信料が多くかかることになる。


その後、
22日の夜中に、モデムの電源の抜き差しを再びやってみたら、
なんと、
スマホのネットワークに頼らないで、インターネットが見れるようになった。


落ち込んだ後の復活は、何とも爽快な気分になる。


私は、今まで、
発想の転換」という手法を使うことで、
気持ちの落ち込みを、最小限に押さえることは出来ていた。


例えば、
仕事で大きな失敗をした時、
「これで命を奪われる訳ではない」、


スポーツで、応援しているチームが大逆転で負けた時、
「自分の生活に影響する出来事でもないだろう」、
(影響する人もいるにはいるだろうが)


今回の、パソコンのトラブルも、少し動揺したが、
「昔はインターネットがなかった訳だし、少しの間、その時代のように
生活すればいいだけのことだ」と考えたりした。


落ち込んだ気分の軽減方法は、会得していたつもりだったが、


「妻の死」に対しては、
さすがに、「発想の転換」は通用しなかった。


他の出来事に比べ、あまりにも、深く重すぎる。


そして、
他との決定な違いは何かというと、


「妻が亡くなったという事実」は、
その時点で固定されてしまうことだ。
元に戻る可能性がゼロだということだ。
数パーセントではない。ゼロだということだ。


「変えることの出来ないその事実」を認めた上での生活が
始まっている。


“アメリカの神学者ニーバーの祈り”より


神様 私にお与えください
変えられないものを受け入れる落ち着き
変えられるものを変える勇気
そして二つのものを見分ける賢さ


要約すると
他人と過去は、変えられない
自分と未来は、変えられる


“上の二つを冷静に線引きして、
出来ることにフォーカスしなさい“ 
ということなのだろう。


しかし、
こんな言葉もある。
“人には悩んだままでいる権利もあるんだよ”
            高浜寛の漫画より

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