これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

見守る側、見守られる側

2日、3日は、箱根駅伝を見た。


特に応援する大学はないのだが、
大学ごとの戦略、選手同士の駆け引きが面白いので見ている。


選手の後ろを走る運営管理車に乗っている監督から、
選手に声が飛ぶ。


そういう場面を何度か見ているうちに、
選手と監督、この関係が、私と妻の関係にリンクして見えてきた。


監督は、走っている選手の走りを、後ろからすべて見て、
見守っている


妻も、私の行動すべてを空から見て、見守っている。


監督は、声を出して、選手を力づける。


妻は声を発しない。
しかし、見えない力で私を応援してくれている。


構造は同じだ。


妻の声なき声は、
心のバランスが崩れるのを防いでくれる。
そして、
小さな希望を抱かせてくれている。


妻は監督、私は選手。


これとは逆に、
私が妻より先に死んでいたら、
私が監督、妻が選手となり、立場が逆転する。


私が空から地上の妻を見守る。


妻の一人暮らしを想像すると、心配でならない。
部屋はゴミ屋敷になり、自虐的な生活を送っている妻が頭に浮かぶ。


妻を大切にしてくれる、やさしい男性と再婚でもしてくれた方が、
私の心は安まるのではないかと思ったりする。


もしくは、妻を私のもとへ、
すぐに引き上げることさえ考えるかもしれない。


そう考えていくと、
亡くなる順番が、私より妻が先になったことは、


神様が、
よくよく考えて行なった結果なのか。


これまで、
神様に対しては、“まぬけ”なイメージを持っていたが、
神様は、
私のような凡人に対し、超越した存在なのかもしれない 
と思ったりもする。


もう少し、
神様の行いを観察する必要がありそうだ。


以上、
神様がいるという、前提の話でした。

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