これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

半分期待している

ウクライナ情勢が毎日報道されている。


コロナのニュースも、毎日報道されてはいるが、
世間の注目はウクライナの方に移っている。


人間、新鮮なものに目が行くということか。


「ウクライナ侵攻」は、“人”が起こし、
「コロナ禍」は、“ウイルス”が引き起こしている。


「ウクライナ」、「コロナ」ともに、
“命”について、考えさせられるニュースだ。


妻の“命”が無くなって、4年半が過ぎ、
ニュースとしては古くなったが、
私の心の中にある、「妻のニュース」は、
劣化することなく、いつも新鮮だ。


テレビを消して、ベッドに寝転がってボーッとしていると、
家にいるのは私一人で、シーンとした静寂の時間を感じる。


そして、しばらくして、
開放した部屋の入り口の方に目をやる。


すると、
童女のように無邪気な笑顔で嬉しそうに部屋に入ってくる妻の姿が、
その何もないはずの空間に、おぼろげながら浮かび上がってくる。


0.5秒位の心の和らぎの瞬間となる。


しかし、
それはすぐに消えていき、
悲しさ、寂しさ、空しさが心を覆う。


こういう心の状態になることは、定期的にある。


そのシーンが過去のものとなり、
もう二度と体験することはないと考えると、
何ともやるせない気持ちになる。


どうにもならないのだから、
この状況に慣れるしかない。


頭の切り替えは、今後も出来ないが、
その状態を横に置くことは、出来るようになっている。


喪失感を消すことは出来ないが、それを横に置くことは出来る。
これが、私が今、精一杯背伸びして出来る限度だ。


私が死ぬ時(与えられた寿命までは生きるつもり)、
妻のところに行ける。


頭に浮かぶ妻ではなく、本物の妻のところに行ける。
姿、形がないのは残念だけど、
魂という本物の妻のところに行ける。


そうなることを、
半分だけ期待している。

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