“喪失感”を食べる
今、“喪失感”という食べ物が目の前に出されている。
私が最も苦手とする食べ物だ。
食べたくないけど、
これ以外に食べ物は出ないことになっている。
食べないという選択もある。
しかし、そうすると、飢餓で死ぬことになる。
妻を亡くしてからは、
「死ぬこと」は悪いことではないという考えがある。
そうなることを、40%ほど希望している。
しかし、
60%ほど、そちらへ進むことを拒む自分も体の中に存在する。
ならば、“喪失感”を食べるしかない。
ただ、
そのまま食べるのは辛い。
1つ、
*食べるための、工夫をする。
“喪失感”に調味料を加え、味を変える。
どんな、調味料か。
妻のいない生活の中で、楽しみを見つけ出す。
趣味のテニスが候補として挙がる。
確かに、気持ちが良くなるが、目的を達するまでには至らない。
人のためになる活動、
出来なくはないが、あまりしっくりこない。
“喪失感”の味を、大きく変える調味料は、
今のところ存在しない。
もう一つ、
*考え方の変換
“喪失感”を悪者にしない考えに改める。
どんな人間にも、必ずいいところがあるように、
一見、汚物の固まりのような“喪失感”でも、
深く解析してみると、意外なものが見つかる気もする。
残念ながら、私が死ぬまでの間は、汚物にしか見えないだろう。
今の時点では、どの角度から見ても、悪者にしか見えないのだ。
しかし、
私が亡くなる瞬間、
“喪失感”の外を覆っていた膜が透明に変化し、
見透せるようになり、
中に宝石(妻)が見える場面があるかもしれない。
「“妻”はここにいたのか」と驚く瞬間だ。
一見愚鈍で冴えない風貌の“刑事コロンボ”が、
鋭い推理力で、犯人を追い詰めていく、ギャップ感、
“水戸黄門”が印籠を見せる瞬間、
のような感じ。
(「例え」が、ちょっと違う感があるかもしれませんが・・・)
長い目で見てあげよう。
嫌いなものを、そうでないように接することも、修行の1つだ。
それを続けたら、最後に、いいことがあるかもしれない。
就寝前、
ファンタジーに浸ってみました。
(この時間が、“調味料”なのかもしれません)