「悲しみ」について
猛暑が続いている。
こう熱いと
秋が待ち遠しい。冬の方が、まだましと一瞬思うこともある。
一方、
冬になると、春が待ち遠しく、夏の方が、まだましと思う瞬間がある。
要するに今無いものがよく見える現象。
「隣の芝が青く見える」ということわざに近い。
私の生活で、今、無いもの。
それは、妻がいない生活。
記憶を消さない限り、
過去は、今の生活との比較の対象とされてしまう。
比較により、以前の生活が、まぶしく見えるようになる。
努力することで、以前の生活に戻れるのであれば、
例えそれが3%の確率であっても、希望を胸に努力するだろう。
でも、
それが100%不可能なことであれば、努力する道は閉ざされる。
過去は、取り戻せない。
悲しみの感情が、どんよりとした雲のように胸の中を覆っている。
時に、妻を思い出すものが目に入った時、雨が降る。
今、私はそういう状況になってしまったが、
この先、何年か生きることになるはずなので、
この「悲しみの感情」とは、付き合わざるを得ない。
そこで、
ほんの少しだけ、「悲しみ」 について、真面目に考えてみた。
「悲しみ」を悪者にしないで、
愛おしいとまでは言わなくても
妻の一部であり、
嫌なものではないと考える。
「悲しみ」は、妻の思い出が創り出しているもの。
ふとよみがえる折々の悲しみは、
妻と生活を共にしたことの証明書。
そう考えれば、
悲しみが訪れた時、
邪険にせず、丁寧に出迎えることが出来るはず。
悲しみから逃げるのではなく、
悲しみを追いかけ回すくらいでいいのではないか
(ちょっと極端な言い方ですけど)
「立ち直り」という言葉は、
現状を否定しているようで。好きではない。
自然な流れの中で、悲しみが消化される方が、副作用が少ないような気がする。
(私独特の考えかもしれませんが)
以上のような考えに到達出来れば、心が少し楽になるはずですが、
実際には、相当難しい「心の変革」 だと思っています。
それでも。
この変革を目指すことを、
今後のライフワーク?にしてもいいと思っています。
「妻は今でも私の傍にいる」
という “スピリチュアル的な考え” の力も、少し借りながら、
悲しみを消化しつつ、少しずつ妻に近づいていきたい
というのが、今の私の考えです。