これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

生活の中でのルーティン化

死別後、生活にルーティンを取り入れている。


目的のない生活になったことで、無気力になりそうな精神に、
ルーティンをこなすという目的を与えて、
そうならないように努めている。


最初は、意識的に行なっていたが、毎日こなしていると、
今は、無意識のうちに、行なうようになっている。


少なくとも、ルーティンをこなしている時間帯は、
喪失感に目が向かない。


朝のルーティンの場合、


起床して、まず、妻の遺骨箱を擦りながら、「おはようございます」
と声を掛ける。


トイレを済ませ、トーストをトースターに入れスイッチを入れ、
焼き上がる間に、体重計に乗り、
玄関ポストに差し込まれている新聞を取り入れ、豆乳をコップに入れる。


そうしているうちに、トーストが焼き上がり、
マーガリン、ブルーベリージャム、蜂蜜を塗りつけ、食べる。
その間にテレビをつけ、早朝に録画していた経済番組を1.5倍速で見ながら、
パソコンを開き、株価ボードで株の動きを見る。


朝は、いつもこういう感じだ。
こうしている間は、少なくとも、寂しさに意識が向かうことはない。


昼食は、ほとんど外食にしていて、
料理ジャンルごとに、行く店を決めている。


行く店を固定することで、スタンプカードや会員カードからの割引で、
経済的メリットが得られるが、
それ以上に、メリットを感じるのは、精神面だ。


その店の店員と、定期的に来店する私との関係性は、
当然、知り合いではないのだが、
知っている相手という関係性にはなっているはず。


すると、全く知らない客とは違って、こちらを見る目、表情が少し違う。


それを感じとった時、
会話を交わすことはない関係性であっても、
0.1人くらいの人と会った感覚が得られる。


一人住まいで、会社に行っていないと、
誰とも話さない日が、多くなる中、


行く店を固定し、同じ店員を見ることで、
ささやかであっても、孤独緩和の役割を果たしてくれる。


先日、
自転車で10分程のスーパーが毎週日曜日に行なっている「朝市」に行った。
目当ての商品の特売がある時に行くようにしている。


これも、ルーティンの1つ。


先週の日曜日にも来ていた母親、6歳位の女の子、3歳位の男の子の家族が、
横にいることに気付いた。


見た目、気の強そうなお母さんで、
先週、
女の子が、お母さんに、きつい言葉で叱られ、神妙な面持ちで立っていて、
男の子は状況を把握しておらず、独自の世界で動いていて、
その光景が頭に残っていたため、
すぐに、あの時の親子だと分った。


この日は、
先週と違って、女の子は、弟ときゃあきゃあと騒いでいた。


先週の神妙な顔とのギャップがあり、おかしかった。


スーパーの朝市に行くというルーティンが、
知り合いはいなくとも、人と会っている感覚を与えてくれる。


次の日曜日、朝市に行くと、この親子に会う確率は高そうだ。

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