これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

「ねばならない」

妻が亡くなる前までは、
小さいはずの不安が拡大され、
大きいものとして捉えられていたような気がする。


例えば、
少しだけお腹が痛い時、「何か大きな病気が潜んでいるのではないか」、
「この貯金額で老後は大丈夫なのか」、
「人脈をもう少し増やした方がいいのではないか」、 等


でも、一人になった今は、
これらの不安は、ごくごく小さなものに変化している。


これは、
妻がいなくなったことが影響していることで間違いない。


妻を亡くしたという経験が、
それまで感じていた不安が、
大したことではないと思わせるようになった。


長生きしなければならない
お金を増やさなければならない
社会でそれなりに生きて行かなければならない、 


妻がいなくなって、
この「ねばならない」から開放された。
必要のないことに、こだわる必要がなくなったのだ。


私の肩から、「ねばならない」という荷物が下ろされた。


そのため、身軽になったと感じることもある。


でも、
この「身軽さ」には違和感がある。


「生きている」という手応えが、消えてなくなったように感じるのだ。
糠に釘を打っているような感覚だ。


人間、持っておきたい荷物が必ずある。


「自分のために」の、「ねばならない」は必要ないが、
「妻のために」の、「ねばならない」は必要だったのだ。


私は、「ねばならない」から開放された代わりに、
「生きている」という感覚を失ってしまった。

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