「兵器」よりも「家族」
ウクライナの現状を伝える番組を、何気なく見ていた。
小学校での子供のクリスマス発表会のあと、
兵士として戦っている父親が前に出て、
小学生や母親の前で、こう語りかけた。
「私たちの武器は、西側諸国からもらっている兵器ではなく家族です。
戦地で寒くて濡れていても、砲撃音が聞こえても
家族の写真を見ると一番の勇気をもらえるのです。
このような家族の支えがあれば怖いものはありません」
この、父親である兵士の言葉は、胸に響いた。
家族の力は、兵器よりも強いと言っている。
柔(家族)よく剛(兵器)を制す ということだ。
その兵士は、明日にでも、命を落しかねない環境下にいる。
妻、子供に、家族を失う気持ちを与えてしまうかもしれない
ギリギリの環境に身を置いている。
戦争は、
家族をこういう状態にさせてしまう残酷さを持っている。
私は、
妻という家族がいた時は、
特に「家族」について、特別意識することはなかった。
妻を亡くしてから、「家族」というものを意識するようになり、
それに包まれていた頃の、温かい感触への郷愁が心を覆う。
未だに、「家族」への執着は消えていない。
“絶対に戻らないもの” への執着を持ち続けている。
合理的でない思考が、まだ残っている。
人間は、合理的でない生き物だと思っているので、
この思考から抜け出せないのは、
言ってみれば人間的とも言えるかもしれない。
この“合理的でない思考”を持ちつつ、
「家族を持ったことがある経験」に対する感謝の気持ちも併せて持つことが
出来るようになれたら、
一歩前進 ということになるのだろうか。
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