これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

過去と共に生きる

“点と点の交わり”
“唯一無二と唯一無二の交わり”


妻と私の出会いは、
こういう表現でいいと思う。


両親、姉弟妹とは、“線と線との交わり” 
両親との線は、二人とも亡くなり途絶えたが、
姉弟妹との線は、伸長中。


会社の人、趣味で出会った人とは、“面と面との交わり”
面はその時その時で広がったり縮んだりするが、
現在は、縮小気味だ。


妻は、素直に心を開けて、
有り余る想いを、私に分け与えてくれた。
私も、お返しをするように、妻を想った。


そのようにして、私たちは、喜怒哀楽を共にした


そのような人が、この世から旅立った。


私は、今までに経験したことのない動揺の波にさらされた。


現在は、
動揺の波は収まったが、
悲しみの感情が、心の壁に付着した。
これを取り除く洗剤は、まだ開発されていない。


妻がいた頃は、
未来、
すなわち、先を先を 見ながら生きていたが、


今は、先をあんまり見ず、過去を見ながら生きている。


妻がいない未来 よりも、妻がいた過去 を見ている方が、
心が落ち着き、穏やかになるからだ。


こんなことを言うと、
普通の人からは、
「過去にとらわれず、前を向いて生きなさい」
というアドバイスが飛ぶだろ。


でも、
私としては、何もない未来を見るメリットを感じないのだ。


あえて、そうアドバイスする人に説明するとしたら、


「過去を絡みとって、今に活かそうとする生き方の方が自然であり、
「思い出」という一枚一枚の平面を積み重ねて立体にすることで、
自分の人生に厚みを加えようとしているのです。


過去を思い出すと、悲しい気持ちになるのは避けられないが、 
大切な思い出が、今を生きる希望にもなっているのも事実なのです。」
と。


納得はしてもらえないかしれないが、
こういう説明しか出来ない。


点と点の出会いが成立した「妻」と「私」。


目の前にある未来には関心がないけれど、
遠い未来には、大いに関心がある。


それは、妻との再度の出会いだ。


それは
粒子と粒子の出会いであり、
点と点の交わりどころではなく、奇跡ともいえる出会いだ。


確率は、何兆分の一かも知れないし、ゼロかもしれない。
何兆分に一の確率であっても、
それが、一つしかない希望であるなら、
とにかく追いかけるしかない。
それは、苦痛にはならない。


このような、心の内側は、
人には言えないし、言ってはいけないと思うが、
ブログの中では言うことが出来て、
助かっている。

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