これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

24年半の記憶が消えたら

世の中、二律背反するものに出くわすことは多い。
それは、
どちらか一つだけを残すということ。
二つは残せない。


コロナ対策においても、
「生命」か「経済」のどちらを優先すべきか
という話が、よくされていた。


野球選手であれば、
「ホームラン数」と「打率」のどちらに比重を置くかを、考えているはず。
(大谷選手のように、二つが両立する、特別な人もいるけれど)


妻とは、24年半、生活をともにした。
この「24年半」は、
切り取って保存したいほど、他の期間よりも重要な期間だった。


そのような期間であったため、
24年半だけで終わったことが、
今の、悲しさ、寂しさ、後悔を生み出すことになった。


仮定として、
この「24年半」だけを、記憶から消すことにしたら、
どうなるだろう。


この悲しさ、寂しさ、後悔は、
“24年半の幸せな生活” が変異したものなのであるから、
“妻の記憶” が消されたら、
当然、これら悲しさ等も消えて行くことになる。


しかし、
大切な「24年半」がなくなることは、
私の心の中は、「大黒柱」のない家  みたいになってしまうということだ。


不安定な家になってしまう。


今の私を支えているのは、
「妻との24年半の思い出」だということが、はっきりしてくる。


結局、
「悲しさ」、「寂しさ」、「後悔」とは、共存せざるを得ないのだ。


「悲しさ」、「寂しさ」、「後悔」は妻なのだ。


「妻」を排除することは出来ない。


ここまでは、わかった。


しかし、今の私は、
これら「悲しさ」等を、
どうしても、「妻」として見ることが出来ない。


「悲しさ」、「寂しさ」、「後悔」が、
「妻」として見えるようになった時、
『本当に妻を愛している』と言えるのではないか。

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