これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

決まっている「幸せの総量」

妻と出会っていなかったら、私はどのような人生になっていただろうか?


独身のままで今に至っているかも知れない。
或いは、他の女性と結婚していたかもしれない


独身だと、ひとりの寂しさはあるかも知れない
しかし、最愛の人を失う辛さを経験しなくて済む。


妻以外の女性との結婚生活は、普通に平和な毎日になったのではないだろうか


しかし、妻との“24年半の生活”のような、
一時期であったにせよ、他とは代え難い究極の期間には成り得なかっただろう。


この期間は、
すべてのことが生きがいに繋がっていた。
やさしさを惜しみなく出すことが出来た。


妻はいなくなったが、“24年半の思い出”を残してくれた。
この思い出は、お金や社会的地位を得ることに比べ、
天と地の差で価値のあるものである。


私の心の中に持ち続けることができる大切な物である。
出会いがなければ、それを持つことは出来なかった。
そう考えれば、運がよかったといえる。


私に与えられた“幸せ度の総量”が一生の中で決まっていたとしたら、
幸せが24年半の中に凝縮されて存在していたのではないだろうか。


その期間に出し尽くされたので、幸せの残量はあまり残されていない。
残りの人生で少しずつ使うしかない
だから、今の生活で幸せ度が薄く感じるのは、
至極当然のことだ。


“結婚しないで独身であること”、“妻以外の女性と結婚した場合”は、
24年半に凝縮したものに比べ、
均等に分散された幸せをもっての人生になっただろう。
そのため、今感じている辛さは経験しなくていい。


どちらの人生を選ぶかと聞かれれば、
辛い思いと付き合って行かなければならないにせよ
“24年半の思い出”を持つことが出来た人生は貴重だ。
外すことは出来ない。


この思い出は大切なものなので、正確に頭の中に持ち続けなければならない。
そのためには、ボケないように頭を健康に保たなければならない。


妻を喪って以降、“健康に気遣い長生きすること”の意味は無くなっていたが
健康に気を使うことは無駄にはならないという考えになってくる。
少々無理やりな感じがしないでもないが、
1つ“小さな目的”を作り出すことが出来た。

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