これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

遺骨箱の横の スナップ写真

いつも昼食は外食にしているのだが、今日は家の中でカップラーメンを食べた。
外は雨が降っていて、天気予報では一日中雨ということなので外に出ないことにした。


食器棚にカップ麺が6個あったが、その内3個は賞味期限切れだった。
その3個は概ね1ヶ月超えだった。


風味が落ちているのは仕方がないが、体は大丈夫だと思い、
うどん、焼きそば、ラーメンの中から、期限を一番オーバーしているラーメンにした。
賞味期限をオーバーしているということが頭にあり、
その先入観から、イマイチ美味しくないと思いながら食べた。
実際美味しくないのだとは思うが。


家で食事を取るときは、いつも妻の遺骨箱の前で食べることにしている。
仏壇はない。遺影もない。


遺影の代わりに、スナップ写真(A4の写真用紙にスナップ写真をたくさん並べて
印刷したもの)
を遺骨箱の横に立てかけてある。
他に、遺骨箱の周りには、お供え物や、妻が亡くなった後に届いた年賀状等を
置いている。


妻は仏壇や遺影のような暗黙に決められたものに従うことを嫌うところがあり、
妻を偲ぶ場所として、妻が望みそうな形式にしている。


そのスナップ写真を見ながらひとり食事をしていると、
妻に先立たれた中年(老年?)男の哀しい姿を意識せざるを得ない。


スナップ写真を集めた写真用紙は10枚程作成しており、
概ね1ヶ月の間隔で入れ替えている。
ほとんどが、旅行先のものと、二人で近隣に出かけた時に撮った写真だ。


二人で腕を組んでいる写真は、妻が私に寄りかかっているものがほとんどで、
頼られ感があり、自分ながらに微笑ましいなあと感じてしまう。


また犬に向き合って撫でている写真も複数ある。
家では犬は飼っていなかった。
妻は旅行先で出会った犬を見ると無防備に近づき、向かい合って撫でるのが普通だった。
その様子は少女のようで愛らしい姿だった。


最近、いいなと感じるようになった写真がある。
それは、東京湾のクルーズ船に乗った時の写真で、
海を背景にして妻の顔をアップで撮ったもの。


妻の遺骨に手を合わせる時、斜め前を見るとその写真が目に入る。


まるで “生きた妻” と目が合ったような感覚を持つことが出来る。
顔の中で、“目” は最も 心と繋がるパーツ だと思っている。


一瞬、脳を騙しているにすぎないが、
ほんのわずかであっても、本物の妻を体で感じる瞬間だ。

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