これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

「やっていることで、無駄な事はない」

一番大切な人を喪った後の生活ほど難しいものはない。
何を目的に生きていくのかが分からないからだ。


目的なく生きても、この世に存在することは出来る。


しかし、存在しているだけであり、
人間ではなく、意思を持たない「物」状態と言えるだろう。


人間に復活するには、どうすればいいかを考えながら
毎日を過ごしている。


大切な人がいない世界で生きていくことは、
無駄ではないかと、普通に考えてしまう。


今、本当に無駄に生きているのか考えてみた。


「やっていることで、無駄になる事はない」
ここ数年、そう感じることが数多くある。


私が、学校を出て最初に入った会社は、
入社して2年だけ黒字で、
その後は毎年赤字を出していて、毎年少しずつリストラを実行していた。
ボーナスも、普通は在籍年数で増えるのだが、毎年少しずつ減っていた。


なぜこの会社が潰れなかったかというと、
メイン銀行がこれでもかというくらい支援を続けたことや、
好立地の本社・支店が多かったため、
それを毎年切り売りすることで命を繋いでいた。


そんな会社に、なぜ22年も辞めないで勤めたかというと、


銀行が継続して支援しており、いずれ復活するのではという
淡い期待があったこと、


当時は、一握りの突出した能力のある人以外は、
転職することが不利になる時代であったことなどから、
転職に踏み切ることはしなかった。


銀行主導の大リストラが敢行された9ヶ月後、私は自主退職した。
1年後、会社が会社更生法を申請したのをテレビのニュースで知った。


以上、
昔勤めていた会社の事を書いたが、
普通に考えると、無駄な22年だったように思える。


もっと早く転職していれば、貯金も増えていて、
違う人生になっていたのではという後悔を、
少なくとも数年前までは持っていた。


しかし、最近、その22年も無駄ではなかったと感じ始めている。


給料が少なかった分、倹約力を養うことが出来た。


追い詰められた会社や組織内の人間の行動様式を、
生で見るという貴重な体験をすることが出来きた。


これらのことは、
今の生活に生かされていると感じることが多い。


一番大きいのは、
そういう状態の会社に勤めている時期に、妻と出会った事だろう。


妻は、こういう会社の状態を知っていたうえで、私との結婚を決めた。


「外を覆うもの」ではなく、
「私自身」と結婚する意思を持った人と
結婚することが出来た。


他に、無駄ではなかったと思えるようになった
例を挙げると


会社に入社した新人の頃、
「やらされている」と思ってやっていた雑用の経験は、


早く終わらせる工夫が、集中力や段取りの訓練になっていた。


翻って、
今の生活 “存在しない妻を想い続けること” はどうだろう。


やっていることで、無駄な事はない」を当てはめると、


「無駄ではなかった」と分かる時が、
いずれ来るような気がする。

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