これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

妻と私を入れ替えてみたら

「2017年10月6日、亡くなるのが妻ではなく私だったら」、


過去は、変えることが出来ないのに、
そんなことを、たまに考える事がある。
頭の中が、暇なのか。


妻の一人生活が始まる。
妻は料理をしないので、歩いて3分ぐらいで行けるコンビニや
オリジン弁当を毎日食べるだろう。


スーパーは自転車で7~8分かかるし、
何と言っても、妻は自転車に乗れないので、
スーパーへ行くことはないだろう。


食生活よりも心配なのは、お金に関してだ。


生活費は、遺族厚生年金と、私から相続した金融資産
やっていくことになる。


私の老齢厚生年金額がそう多くないので、
その4分の3となる遺族厚生年金で足らない分を、
貯金を取り崩しながら生活することになるだろう。


そこで問題になるのが、妻が長生きした場合だ。
妻が毎月どの位で生活するか分からないが、


ざっと計算すると、20年くらいで貯金が底をつくのではないか。


平均寿命の手前で貯金が無くなることになる。


不意の病気や、介護費用も考えとかないといけない。
その時は、住んでいるマンションの売却資金を充てることになるだろう。
その場合、不動産屋と上手く交渉出来るか、心配だ。
損をしないだろうか。


私は“無”になり、妻を助けることが出来ない。


しかし、希望的観測になるが、
私が空の上で存在し続けている場合もある。


そうであれば、
妻を空から見守り続け、
お金が尽きるようなことになれば、
妻を、私のいるお空へ引き上げてあげれば、
妻は苦しまなくて済む。


妻を空から見守っているのは、私だけじゃないことに気付く。


横を見ると、
妻より先に癌で亡くなった妻のお父さん


近所の家の前に繋がれていて、いつも妻が撫でに行っており、
亡くなったあとも、「会いたい、会いたい」と妻が言っていた
柴犬の「ハチ」。


妻は一人になったわけではなかった。
人間だけでなく、犬にも見守られていたのだ。


ここまでは、
妻と私を入れ替えるという、今さら変えることの
出来ない想像話をしてきた。


現実に戻って、
“死”について改めて考える。


普通、亡くなると“無”になると考えられるが、
“無”は、
“ゼロ”ということであって、マイナスではない


そして、
もし、お空に世界が存在するのであれば、
それは、願ってもいない、プラスということだ。


そう考えれば、
“死”は、
考えているほど、悪いものではないという気がしてくる。。


考えてみれば、
“ゼロ”か、“プラス”のどちらかでしかなく、
マイナスにはならないのだ。

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