妻の寿命
私は何歳まで生きるだろうか。
1年後に亡くなるか、
健康寿命の6年後か、平均寿命の15年後か、
父親の亡くなった年齢まで生きて27年後か。
「寿命」が決まっていると考えるとしたら、
それはそれで楽である。
車の助手席に座っているようなものだ。
どこまで走るかは運転手が決める。
こちらの意向は反映されない。
運転しているのは神様。
妻が亡くなる以前は、
なるべく長生きしたいと思っていた。
しなければならないと思っていた。
しかし、今は、
長生きしなくてもいい身になった。
私は、神様に、
「好きなように私の『寿命』を決めて下さい」
と言うだろう。
そしたら、
神様は、「ハイ。私が決めるんです」
と答えるだろう。
私についてはそれでいいのだが、
「妻の寿命」を決めた経緯については、
説明を求めたい。
「忙しかったから、間違って早くボタンを押しました。」
などという回答をするものなら、
いくら神様でも許せない。
「○○子さんの、生きようとするエネルギーが尽きたのが、57歳だったんです」
というような、
優等生的な回答でもいいからしてほしい
亡くなった時が、私の寿命だ。
当たり前だ。
この世でやり残したことはあるか。
ないかもしれない。
妻との「24年半の生活」は終わった。
私の人生のメインテーマは既に終了している。
あと、何が残っているか?
何も残っていない。
生きようとするエネルギーが尽きるとき、
自分の死が訪れる。
その時、
無になるのか、
次への旅立ちになるのか、
どちらかしかない。
どちらでもいいです。
お任せします。