これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

デジタルの限界

しばらく、妻のビデオを見ていない。


頭の中では、妻を毎日見ているが、
ビデオ映像の妻は、しばらく見ていない。


妻の映像を見る時、
“郷愁”と“寂しさ”が同時に発生する。


“郷愁”と書いた時点で、
妻を、過去の人と認めていることになるのだが・・・。


ビデオに映っている妻は、
間違いなく過去のものだ。


ビデオは過去の時間を今に引き寄せてくれる。 
そして、
いろいろな場所で撮ったものを、
パソコンという一カ所に集約もしてくれる。


錯覚を利用して、失った「時間」と「場所」を再現してくれる。


過去の妻の動きを、
「今」の私が、いつでも見ることが出来る。


映像に映っているのは、
その時の、妻の「動作」や「しぐさ」だということで間違いない。
CGで作られたものではない。


しかし、それは「妻」であるが「妻」ではない。


の動作やしぐさ」ではないからだ。


映像は、
過去の立体としての動きを、平面に加工されているだけのものだ。


それが、
質感が“ある”ものと、“ない”ものに分けられることになる。


“ビデオ映像”と“リアル”の決定的な違いとなる。


妻の“質感”を感じるためには、
「過去」の妻が「今」に移動するか、


「今」の私が、過去に移動するか
のどちらかしかないだろう。


前者は、スピリチュアルの話になってしまい、
後者は、タイムマシンでもない限り無理だろう。


「過去」と「今」の話をしてきたが、
時間軸には、もう一つ「未来」というものがある。


「今」において、
妻は、私から見て「過去の存在」であり、
私が生きている間は、
ずっと「過去の存在」であり続けることになる。


私が亡くなったら、
私という基準がなくなるのだから、
「過去」「今」「未来」という言葉自体、存在しなくなる。


過去の妻は「無」になり、
今の私も「無」になる。


この時、初めて、
時間の中にいたは、
時間のない世界に消えていく。

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