「やっと会えたね」
今日の文章は、魂が存在するという前提でのものです。
私も、その存在を完全に信じている訳ではないのですが、
あって欲しいという希望のもとに、いろいろ考えています。
「この世」の人は、誰もが“肉体と魂”を持っている。
「あの世」の人は、“魂”だけを持っている。
妻は、
以前は、“肉体”と“魂”を持っていたが、今は“魂”のみである。
私の“肉体”と“魂”、
妻の“魂”
という新たな関係が4年前から始まっている。
妻と繋がり続けるためには、
妻の魂と私の魂が繋がっていなければならない。
以前は、肉体という見えるものがあったから、
つながりの確認が容易だった。
今は、見えない同志のつながりを確認しなければならず、
結構大変だ。
私の魂の感度が良いほど、妻は私に近づいてくるだろう。
私が、「ひとりじゃないんだ」と感じる時は、
そういう時なのだろう。
魂の感度を高めるためには、
妻への毎日の質の高い“想い”が、欠かせない。
この行為は、私にとっては、容易なことだ。
妻のことを考えないことの方が、はるかに難しい。
朝、起きた時、夜、寝る時、
出かける時、戻って来た時、
私は、妻の遺骨箱を両手で擦りながら、
声を掛ける。
遺骨はただの骨だと思っている。
妻の魂は、そこにではなく、
私の周囲に存在すると考えている。
なので、
声を掛けている姿を、
妻は周りから眺めているはずだ。
“妻を想う私の姿”を見てくれていると思う。
私が最も使いたい言葉がある。
しかし、その言葉は、今は使えない。
私が亡くなる寸前に、
その言葉が、使えるか 使えないかが、
分かると思う。
その言葉は、
「やっと会えたね」