“思い出”と“喪失感”の関係
妻を知ったから、喪失感がある。
幸せを感じていたから、喪失感がある。
妻あっての喪失感ということか。
妻と出会うことがなかったら、
喪失感というものを経験せずに済んだだろう。
a 妻がいて幸せ > b 妻がいなくて不幸せ > c 妻自体を知らない
これが、私が求める人生の順番だ。
妻は亡くなっている。
妻が生き返る以外、a はあり得ない。
C には、喪失感はないが、思い出がない。
すると、bしか選択の余地がなく、これが、現在の私の状態となっている。
妻の死は、
“思い出”と、“喪失感”の、相反する2つのものを、
置いて行った。
“思い出”を消し去れば、“喪失感”を消すことが出来るが、
それは出来ない。思い出は捨てられない。
やはり、
喪失感は消し去れないということだ。
“思い出” と “喪失感” は、
性格は正反対だが、以外と仲がいいのでは と 勘ぐってしまう。
世の中、悪い意味でよく出来ている。
「妻がいなくて不幸せ」 を、
「妻がいなくても幸せ」 に変えたいと思ってしまう。
可能だろうか?
常識的には、無理だ。
喪失感を持ち続けるしかないだろう。
ただ、1つだけ可能と思われることがある。
常識の枠の外に目を向けると、
微かな望みが見えてくる。
“妻は、見えないけれど存在している” と本気で思えるようになった時、
今の喪失感は、霧が晴れるように消えていくはずだ。
思い出も消えないで残すことが出来る。
ただ、これは、あくまでも、常識の枠外の話だ。