これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

共鳴

妻が亡くなってしばらくは、寂しさが心の中全体を覆っていた。
寂しさは、今でも、多く残っており、
目に入ったものが、生前の妻の記憶を蘇らせることが度々ある。


ただ、4年10ヶ月が過ぎ、
寂しさの拡大を多少制御出来るようにはなっている。


最近、思うことは、
“物足りなさ”を生活の中で感じること。


それは、
共鳴する相手が傍にいなくなったことが原因と考えられる。
共鳴する人、すなわち波長の合う人が、いなくなった。


先日、
日本一アヤシイ!?雑誌と言われる「月刊ムー」の編集長と
戦場写真家の対談番組を見た。


この “日本一アヤシイ” という表現に、私は反応して、フフッと笑った。


「何がオカシイの?」と思う人は多いのではないか。
でも、私は反応した。


なぜ、反応したのか聞かれてもわからない。
答えにならないかもしれないが、
私の体がその言い回しに、本能的に反応したとしか説明できない。


おそらく、妻もこの表現に反応したと思う。


これを「共鳴」というのだろうか。
共鳴する人、すなわち妻は、波長の合う人なのだ。


好きな曲も人それぞれであるように、共鳴し合う相手もそれぞれ違う。
本能が判断するのだろう。


「生理的に合わない」 という答え方も、
理屈ではなく、本能が出したものだと考える。


“心を振動させる”
お互いの心の繋がりが、お互いの信頼になっていく。


「私の人生はこの人でいく」 と確信出来た。


そこまで考えた人が、いなくなると、ダメージは相当なものになる。


私が、毎日の生活で、
“物足りなさ”を感じているのは
共鳴する心地よさを体感する時間がなくなったからではないか。


妻は私を受け入れ、私も妻を受け入れる関係 であったと思う。
お互いに、パーソナルスペースまで受け入れる関係、
そういう関係に今、私は飢えている。


引き合っている相手がいる安心感、
引き合い、そして共鳴が起こる。
引き合う力が大きいほど心の振動が大きくなる。


この振動がなくなったことで、
私の生活は、味気ないものになった。

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