「あたりまえ」と「ありがたい」
「妻の存在」、「空気」、「水」 など、
これらは、以前は、「あたりまえ」のものと思っていた。
「空気」、「水」については、今でも「あたりまえ」のままだ。
(ただ、「水」については、将来、世界的な水不足により、
世界で争奪戦が起こるという話もある。)
「妻の存在」は、
存在しなくなったことで、「あたりまえ」ではなくなった。
今、初めて、「有り難いもの」だったことに気づく。
もう会えない人になった妻は、「あたりまえ」に戻ることはない。
時間を巻き戻して、妻に感謝を伝えたい。
しかし、砂時計でいうと、
下に落ちた砂は、上に戻すことは出来ない。
妻は、下に落ちた砂で過去なのだ。
どうにもならない。
上に残っている砂は、私の残りの人生。
どうにでもなる。
ただし、あくまでも、それは、妻のいない人生だということ。
妻のいない人生での、「あたりまえ」は何か。
引き続き、水と空気か。
私が息をしていることか。
これらを、「あたりまえ」と思わず、
感謝の気持ちを持って、向き合えるか。
それよりも、
最近、やさしい人を見た時、
その“やさしさ”が、「あたりまえ」ではないと気づき、
感動することが多くなったような気がする。