これからも妻といっしょに

がんで無くなった妻。その魂と引き続き共に歩みます

「弱き人」に、こころが揺れる

自転車で前方を走る70代前半くらいのおばあさん(?)が、
後ろを確認せずに私の目の前で急に右折しようとして、
私の自転車にぶつかった。


おばあさんは、私の自転車の前で、倒れた。


その時、私は、瞬間的に、「なんだよ」と怒りが頭をよぎったが、
倒れたあと、起き上がっているおばあさんの姿と表情を見て
その怒りは瞬時に消えていった。


そのおばあさんが発する孤独感、もの寂しげな表情は、
“弱き人”がイメージされ、
私の心の中にある “愛おしさ” のようなものを引き出させた。


そして、私はそのおばあさんに対して、
無意識のうちに「大丈夫ですか?」という言葉を掛けていた。


おばあさんは、起き上がりながら「大丈夫です」と言い、
私は、問題ないと判断して、その場を立ち去った。


私は、そのおばあさんを、
その醸し出す哀愁感から、勝手に“一人住まい”だと、予想した。
更に、
ご主人を亡くし、子供はいない、または、遠くに住んでいるのではないか、など、
想像はどんどん広がっていった
(実際は、ご主人や子供、孫に囲まれて、幸せな生活を送っているのかも
しれないが・・・)


どこか弱さを感じる人に、想いを寄せる感覚は、
妻に接する時に出ていた感覚に近いと思った。


5年間、そういう感覚から遠ざかっていたため
今回の自転車衝突は、
久しぶりに、その感覚を思い出させてくれた。



半地下で暮らす韓国夫婦の現状を紹介するテレビを見た。
天井は低く、日は当たらない。
大雨の時は部屋に雨水が流れ込むことがある。


奥さんは
今の生活に対し、国に対して怒りの言葉をぶつけていたが、
主人と狭い部屋で向かい合い、二人仲良くご飯を食べてる様子は
仲睦まじい様子で、穏やかな顔をしていた。


生活苦から来る厳しい顔
信頼出来る伴侶と一緒に居られる安堵の顔
その夫婦から、二つの顔を見ることができた。


伴侶との仲は良くも悪くもなく、恵まれた環境の中で、何不自由のない生活、
対して、
生活は苦しいが、愛する人がいつも傍にいる生活、


「いい生活」と「愛する人」、両方あれば言うことないが、
どちらか一つしか選択出来ないとしたら、
どちらを選ぶだろうか。

×

非ログインユーザーとして返信する